何が現在の経済の間違いかというと、費用を悪役にしている事。

後は、商業を蔑視する風潮。
「お金」の正しい働きに対する理解が不足していって「お金」の正しい使い方がわからない。
日本人的コミュニティーの否定。

費用を目の敵にしている事。
その対極で、利益至上主義ですね。
それから、何でもかんでも、競争させればいいと言う考え方。
費用を悪役にした、利益至上主義になり、挙句、無原則な規制緩和ですね。

実際のところ費用こそ経済の要にある。
費用は悪い、無駄として、経費をひたすら削減しようとするから、経済が成り立たなくなるのです。

市場経済というなら、市場の働き、役割を明確にすべきなのである。
競争がいいとか、悪いのではなく。
競争は一つの働きであり。
何に対し、どのように、競争させるかの問題である。
単純、価格だけに特化すべきではない。
競争には量的競争と質的競争がある。

今、ものすごい勢いで技術革新が進んでいる。
しかも、水面下でだ。日本の多くの経営者は気がついていない。
というより、理解できないのだろう。現実に一つひとつのスキルは、それがどうしたと言う風にしか見えない。チャットGPTが好例であろう。
以前も、ビックデータとか、クラウドなどの言葉に踊らされたが、現実には、ついていけなかったと言うのが、正直なところである。
現在、進行しているAIとか、モダンエクセルなんかも同様に思える。
何が、今、進行している技術革新がすごいのかというと汎用性にある。
ただ、落とし穴もある。技術が、汎用になればなるほど、従来の技術、仕事を組み立てたり、組織、チームを運用したり、コミニケションをとったりというアナログな技術が重要になると言う事である。
早い話、チャットGPTを使いこなすためには、ちゃんと日本語が使いこなせなければならない。
技術が汎用性を増せば増すほど、アルゴリズム、つまりは、段取りや仕事の組み立て、仕事の割り振りといった人間的なセンスが要求されるようになる。
つまり、プロセス、過程が重要度を増すのである。

金融政策や財政政策だけで、経済が制御できると考えるのは愚かです。
金融政策や財政政策は、あくまでも間接的、補助的手段にすぎない。
主たる政策は、経済政策、即ち、市場や産業政策です。

経済政策を有効にするためには、市場のメカニズム、仕組み、構造を熟知しておく必要があります。

消費を無視した生産至上主義。
生活がない。
消費や、費用は、生活なんですよ。
ところが今は、生産至上すぎ。
生産性を挙げればいいと。
それが、大量生産、大量消費ですね。浪費、貪欲。
本来、経済は生きるための活動で。
生活空間をいかに構築するか。
つまり、消費の在り方なんですよ。
今の、都市は、都市計画なんて何もない。

人々の生活なんてどうでもいい。
その典型がビル群ですね。
昔の、整然とした街を壊して、無機質なビルに変えてしまう。
六本木なんて典型。
あそこは、人が住むことを前提として作られていない。

住環境がよくなりましたか。
家は、三十年で壊れるのが経済的なんですよ。
かつてのような趣のある家なんて不経済なんです。
だから、敷地面積はどんどん狭くなり。
少子高齢化なんて言って、空き家が一方で増えて、高層マンション。タワーマンションが乱立。
高層マンションは、老朽化すれば、社会問題化するのは必須なんですよ。
家は一戸建てがいいに決まっているのに。

小道を散策して、こじんまりとした居酒屋でなんて風情がどこにもない。
結局、生産性を重視すると、オフィスの中に、店を出す。
本当の価値が失われている。
文化の否定ですね。

だから、恋愛だって味気ない。
人の死も統計でしかなく。
死生観なんて成り立たない。

文学も哲学も、成り立たない。
その延長線上にAIで小説を書く。
小説の意味がない。

昔は、都市計画が先にあり。どんな生活空間にするかを土台にして経済を構築した。
分配も、今は市場がしているように錯覚させられていますが、市場だけで分配していたわけではなく。

美学の否定です。
かつての建物は、美学があった。
つまり、思想とか、文学ですね。
機械一つとっても、美学があった。
今は、効率。
うつくしくない。
経済は醜悪だとでも言いたげ。
人間の生き様にも美学がない。
汚い、醜いのが人間だと。

だから、京都など綺麗な街並みが作られたので。
金は手段であり、道具なのに、目的化してしまい。

その結果、拝金主義が横行する。
無計画、無秩序ですね。

その結果、犯罪も増える。
道理もへったくりもない。
道徳も人間性も微塵も感んじられない。

金の為なら何でもする人間ばかりになる。
経済は、人々の生活を豊かに言われる通り。
金もうけに走れば走るほど、人々の生活は貧しくなり。
心は荒んで。かつての、商店街は廃れていく。
おかしいですよ。し、幸せにするのが目的ですよ。

不幸をまき散らしているなんて、真の経済ではない。

ここから先は、僕の理論です。

経済は、三つの局面、生産、分配、消費から成り立っている。
それぞれを、生産主体と分配主体、消費主体が担っている。
生産主体と分配主体は、一体として機能している。
分配は、分配主体によて予め分配手段である「お金」を組織的に所得として消費主体に分配し、消費主体は市場から「お金」と生産物と交換する事で完成する。
生産主体は、市場に生産物を供給し、売上として「お金」を回収して、賃金(費用)として支出する。

市場だけが分配を担っているわけではなく。
むしろ、分配主体が、組織的に交換手段によって分配している。ここが、肝心。

つまり、分配を担っているのは費用で、費用はなくせばいいのではなく。
適正であるかどうかが問題なのである。
闇雲に、費用を削減したら、経済は成り立たなくなる。

会計で、なぜ、BSとPLを分けて計算するのか。
それは、損益が分配を担っているからである。

生産効率ばかりを重んじて、費用を削減し、利益を追求すれば、当たり前に分配に歪が生じて経済が成り立たなくなる。

巨大で無人のショッピングセンターを作ったら、その周りを失業者の群れが取り囲む。
それが、無人化の行き着く先である。

経済の働きの中で費用は、無駄な事で、生産効率は、費用を徹底的に削減すべきだと間違った認識に立つ人がいる。
それは、経済に対して、決定的、致命的過ちを犯すことになる。
なぜならば、費用こそ経済の要、エッセンスだからで、経済は、費用を要にして回っていると言っても過言ではない。
費用を無駄だとする人は、例えば、入り口と出口しかない家に住んでいるようなもので、
要は、プロセスや過程を無駄だとしているようんものなのである。
それは、経済を生産の局面からしか見ていない証拠であり。
分配を経緯しているからそうなるのである。
その為か、入口と出口しか知らない人が増えている事。
そして、働いている時間を極力少なくすることに生き甲斐を感じているようなもの。
しかし考えてみよう、労働時間をひたすら少なくすることは、働く時間をなくしているだけで。
結局、自分たちの働く時間を奪っているに過ぎない。
経費の削減というのは所得であり、一見、物理的コストの見えても内実は、人件費を圧縮したものに過ぎないからである。
故に、闇雲にコストを削減したら経済活動は、低調になる。
分配は、費用によって過程を通じて実現する。
システム化が、始まった当初、1970年代、過程がブラックボックス化し中身が見えなくなる。からくりがわからなくなると懸念された。
仕事の組み立てや段取りが出来なくなると言うのが、主たる動機だが、コストの計算が立たないと言う事も意味している。
仕事の全貌がつかめない。過程のブラックボックス化は、頭と尻尾しかない。
つまりは、入口と出口しかない仕事をしていると言う点にある。
過程、プロセスがないのである。
一見、仕事は効率化したかに見えるが、結局、一番肝心なところが制御できなくなる事を意味する。
そして、過程が抜け、費用化できないと言う事は分配の機能が働かなくなることを意味している。

経済にも因果因縁があり。
経済の働きを正しく知るためには、この因果因縁を明らかにしていく必要がある。
因果因縁が過程、プロセスを作るので、同時に、費用の効用になる。
その証拠に、費用は詳細の区分され、各々、働きがある。
費用こそ、経済を動かす要。
それなのに、すっかり、費用は悪役、無用なものとされている。
そしてひたすら削減しようとする。
費用がなくなったら、お金は回らなくなり、分配も上手くいかなくなる。
経費をひたすら削減する事が経済効率よくするのではない。
適正な費用を維持する事が本来の目的である。

費用がどこにどのような影響を及ぼすのか、そのつながりを明らかにし、その経済的効果を適正に評価できるようにすることが肝要なのである。

結局、分配の問題に行き着く。
一人の生産力で、何人を養えるか。
少子高齢化の問題は、分配の問題である。

景気対策として財政政策をとると一時的には効果が上がる。
それに味を占めると、景気対策としての財政政策が慢性化するとともに、既得権が生じるとともに、財政に依存する産業が形成される。
典型的なのは、土木、国防等。
財政政策が慢性化すると、財政が圧迫され、悪化する。
財政の、悪化を国債で補うと、国債の発行に抑制が効かなくなる。
過剰な国債が蓄積されると、金融政策に影響するようになる。
健全な財政政策、金融政策をとるためには、緊縮財政、金融引き締めをしなければならない。
しかし、緊縮財政、金融引き締めは、景気後退を招く。
行政改革をしなければ、財政は改善されない。
行政改革は官僚の抵抗を招く。
その為に中途半端に終わる。反動で、景気対策がとられ財政が悪化する。
財政の悪化を国債をファイナンスする事で乗り切ろうとする。
つまり、財政の規律がなくなり、お札を際限なく刷る。
景気は、徐々に、上向く。
同時に物価も上昇を始める。
景気が過熱状態になるが、物価の上昇も歯止めを失う。
景気の過熱を、冷まし、物価の上昇を抑えるためには、増税や緊縮財政、金融引き締め、国債の発行を抑制する政策をしなければならないが。
金融引き締めををすれば、国債の金利が上昇し、財政を危機的にし。
国債の発行を抑えると財政が破綻する。
何もしなければ、景気は暴走し、物価は青天井に上昇する。
財政破綻をとるか、経済破綻をとるか、二者択一の状態になる。
どっちにしても、経済は、めちゃくちゃになる。
これが、経済の教科書に書かれているシナリオで、今の日本は、シナリオ通り進んでいて、最終段階に差し掛かりつつある。
よくよく、経済状態を注視している必要がある。

為替は、為替が下がって、アメリカとの金利差が開くと、日本の銀行から借金をして、アメリカの銀行に預けるだけで金利差で稼げる。
そうなると、日本の銀行で借金して、借りた円を売ってアメリカにドルに換えるから、当然、円は下がる。
円が下がれば、借りた側の負担は軽くなるから、円をますます借りってドルに変えようとする。
その為に、円安の歯止めが利かなくなる。
円安を抑制するためには、これまた、日本も金利を上げる事だが、財政状態がこれを許さない。
この状態が続けば輸入物価の上昇を招き、物価上昇に拍車をかける。

株価は、日銀が買い支えている事でかろうじて維持されているが。
本来の市場の機能は、失われ、管理相場となっている。
これも、金利の動向や海外の投資家の動きに左右される。
一度、暴落したら、日銀でもどこまで買い支えられるか。

海外では、中国の地価の下落が止まらず、大手不動産の恒大が米国で破産申請した。
また、世界的に見ても物価の上昇が止まらない。
エネルギーや食糧から、見ても、今後、物不足に拍車がかかりそうである。

こういう時代だからこそ、思想が必要なのであり。志しを求められるのだとおもうのです。
これまでのように安閑としてはいられません。
どの様に、経済が破綻していくのか。それを、見極め冷静に対処していくことが重要です。

まず、どの様な事が重要なのか。
実際、どれくらいの通貨が市場に流通素ているかを把握する。
それを知るためには、日本銀行券の発行残高と日銀の当座預金の関係である。
そして、国債がどれだけ発行されているか。それを確認する。

日銀当座預金残高、23.7.31、547兆円、
国債発行残高1080兆円、日銀保有残高、
23.3末、国庫短期証券を含む、582兆円、
保険・年金、21.6%、金融、8.9%。
家計の保有金曜資産2043兆円、現預金が、1107兆円。
日銀貸付金、22.12.31時点、125兆円、これは、コロナの影響。
日本銀行券の発行残高は、116兆円。令和2年度決算。

先ずどのような事が予測されるのか。
第一に、物価の上昇です。これは、最初は緩やかに、徐々に加速していく。
これは、経済的変化は、複利的、幾何級数的だからです。
ある段階で破局的に上昇する。歯止めがなければ。
物価の上昇を抑制する手段は、金利の上昇です。

金利が上昇したらどのような弊害が生じるのか。
一つは、金利の逆鞘による差損の発生。
次に、国債、資産の劣化。
そして、国債の含み損。
さらに、財政の破綻。
その上、中央銀行の破綻。
為替の暴落等が考えられます。
また、コロナの不良貸出が、昭和初期の震災手形の様な働きをする可能性があります。

コロナでは、本来、融資できないとみられる危険な相手にも投資をした。
それらの資金が回収段階にはいいてきた。
先送りが困難であり、中小金曜機関にとって命取りになりかねない。

また、投資先を失った資金が不動産に回っている。
少子高齢化で空き家が増えていると言うのに、片一方で、投資目的の高層マンション、タワーマンションの建設ラッシュが続いている。
これも金利が上昇したら息の根がとめられかねない。

金利は、上がっても下がっても弊害が、大きく出る。
しかも先送りが許されなくなりつつある。

今、日銀の金融緩和をいつまで続けるかが話題になるのはそういう理由。

これらの点から、前兆となるのが、金融不安や、金融恐慌です。
気をつけなければならないのは,前兆は、物価上昇と景気の過熱だという点です。
景気が過熱しても、ブレーキが踏めない。金利を上げるという手段が講じられない。

では、どうしたらいいのか。
コミュニティーの回復ですよね。
人と人とのつながり。
愛情とか、友情。
義理人情の世界。
所謂、左翼のいう唯物的世界ではなくてですね。
血の通った、温もりや温かさのある。
文学的世界。生身の世界を取り戻すしかない。
貧しくても、落語の長屋のような世界ですね。
信じあい、助けあってきた世界ですね。
それを取り戻すしかない。
大体、隣で苦しんでいる人がいても、無関心ではないですか。
そんなの、社会ではないですよ。

例えば、効率性を追求した結果。
倉庫のような店を作り、徹底的に経費を削減し、無人化した結果。
巨大な倉庫の周りを失業者が取り囲む。
これを経済的といいますか。

かつての街にはコミュニティーがあった。
人間臭さですね。
今の街には、生活感も、人間臭さもない。

その結果、買い物難民です。
スーパーに個人商店が駆逐され。スーパーが大型店に。
大型店後郊外のショッピングモールに。
そして、ショッピングモールが成り立たなくなった時、商店街は、シャッター街に荒廃し。
市民文化が取り返しようもない状態になった。

人々は高層マンションに住み。
かつての町並みは消え失せた。

人と人の関係。
人と人が醸し出すドラマ。
それが失せ。

砂漠のような街になった。

だとしたら、もう一度、人と人本来の関係を取り戻す事である。

「お金」が機能しなくなったら、「お金」を頼らない生活をする。
物の経済に立ち返る。
食料などの必需品は自給自足、物々交換。

「お金」は、手段。道具に過ぎないので、要は、生きていく為に必要な資源を手に入れられればいいのであるから。
「お金」が通用しなくなったら、別の手段を講じればいいだけである。

その意味でもコミュニティの回復が出来れば、物々交換のような事でも分配は可能である。

経済本来の役割を思い出す事である。
経済は、人々生かす活動なのである。