親父は、小学校しか出ていなくて。
それこそ。祖母は、小学校を上がる前に子守に出され。
字も読めないで、妹が絵本を読んでとせがむと眼鏡がないととぼけると。
妹が、眼鏡を持ってくるとこぼしていました。
それこそ「おしん」を地で行く世界で。
でも、そういう親父と祖母は今でも、僕の誇りです。
祖母は、関東大震災も大空襲も生き抜き。

祖母に母が聞いたら、空襲の時は、でっかい花火みたいで綺麗だったと。
親父は、工兵で宮古島で終戦を迎え、焼け跡の家に帰ったら、祖母は、泣きもせず、俺の足を見てたと。それで親父は、「足はあるよ。ほら足はあるよ」と足を叩いて見せたそうです。
母の兄弟姉妹は、満州で終戦を迎え、着の身着のままで帰ってきたと。
今は、それも昔。

家もなくみんな住み込みで働いて私は大部屋育ち。
お蔭で、打たれ強い(笑)
何が幸いするか。

今の子で心配なのは、苦労知らずに育ったこと。
だから、エネオスのような最近の出来事は哀しい。
親父に会わせる顔がない。

火事と喧嘩は江戸の華。
いつも、親父は、喧嘩は駄目だよ。
喧嘩をしちゃだめだよと言いながら。
喧嘩と聞くと真っ先に飛び出していきました。

下手にまとめようとするから、まとまらないんだ。
ぶっ壊す覚悟があれば、纏められるさと。
男は度胸。

曲がった事が大嫌いで。
苦しい時、困った時に、世話になった人の恩を忘れるなと。
三日飼ったら犬だって恩を忘れない。
ヤクザだって一宿一飯の恩と。

だからといって恩着せがましい事はするなと。口やかましく。

母は、三歳の時に実の母親と死別し。
しばらくすると満州に実の父親は、仕事で渡っていたそうです。
女学校時代は、親戚の家に預けられて。

​親父は学はないけど、勉強はしていました。
やたらと日本史に詳しく。
まあ、ほとんどが歴史小説から。
洋物は駄目だ。名前が覚えられないと。

俺は、社会大学を出たんだと威張っていましたよ。

だから、俺は、学校にとらわれずに済んだし、学歴コンプレックスに無縁だった。

自分達の子供の頃はそれこそ狸か狐。かけそばよりましで。
天丼、かつ丼なんて年に数えるほどのごちそう。

私は狸等で、子供の頃に食べたラーメンの味は、今も、忘れられない。

それでもひもじさや、貧しさなの微塵も感じたことはなく。
かえって、今のような、恵まれた生活の方が、貧しく思えるの何故でしょうね。

戦後のどさくさの中、親父はそれこそ、油まみれで働き。
何もなくても、矜持と意地は忘れなかった。

戦後、豊かになったと言うけど、なぜか心が卑しくなったようで。
親父達の背中が、惨めで、小さくなった気がするのは私だけでしょうか。

気っ風とか潔さなんて死語になり。
男らしさなどと言えば、セクハラと。
昔は、女々しい事は言うな、男だろと叱られたと言うのに。
今は昔。

義理人情なんて、紙より薄く。
わが師の恩なんて、歌う事もなく。
ただただ情けない世になりました。

下町の人間は下町の人間で。
貧しくても、お天道様の舌を歩けないような生き方をするなと。
いつだって道の真ん中を風切って歩き。
母は、父の五メートルくらい後を、子供と手を繋いでついていきました。

そんな風情もなくなり、義理も人情もなくなり。
それこそが、若者に伝えられなくなりつつある、日本人の原風景。

焼け跡の残った何もない国でしたが、それが怖いと思った事はないのですが。
生活感がなくなり、ただ、シャター街、ゴーストタウンとなった商店街。
昔は、路地裏の小粋な居酒屋でおばさん相手に、安酒を煽ったのに。
今は、ビルの中、オフィスの延長線上にある高級クラブ。
それに、うすら寒さを感じるのは、私だけなのでしょうか。

親父は、仕事が終わった後社員を連れて屋台を貸し切り。
やかん酒、コップ酒。
演歌ではないですが。
それを旧き良き時代というのは哀しい。