出だしの事を、皆は、簡単に考えているみたいだけど、皆が思うほど簡単ではない。
むしろ一番難しい。
一番、気を使いところだし。
出だしを間違うと後が続かなくなる。
最初にボタンを掛け違うと最後まで響くし、わけがわからない。
出だしが、設定できなければ、仕事が始まらないし。
出だしが、だらしないと、全てがだらしのくなる。
何事も、最初が肝心というだろ。
最初がハッキリしなければ、当たり前に、最後も決まらない。

先輩は、出だしは難しいから、ある程度手伝ってやるよと言ってくれた。最初は、手伝ってやるけど、早く覚えって、一人でできるように。
でも今の子は、馬鹿にしないでくださいと、いきなり、拒絶する。
だから、いつまでたっても、仕事の基本が身につかない。
別に、先輩は馬鹿にして言っているわけではないけど。あくまでも善意でね。
それだけ、出だしは難しいんだよ。

なぜ、出だしが難しかというと。
始まりは何もかも、混とんとしている、漠然としているから。
何も決まってないし、何もわかっていない。
要するに、出だしというのは、無から有を生み出すような事。

やる前から、わかっているのは、一割にも満たない。
だから、殆どの事はやってみなければわからない。
野球だって色々な局面を想定しても、実際に現れるのは一つ。
やる前に、ああだ、こうだ、いっても、始まらない。
やってみないとわからない。やってるうちに、わかってくる。
始めようとした時、気が付くことがある。
やろうとすると、確認しなければならない事に気が付く。

一番、神経を使うし、繊細な仕事だと言える。

建国や、創生というのは歴史や神話の根幹をなす部分だというのに。
今、仕事始めや、出だしを簡単に考えて、だらしなくしている。

誰かが音頭をとらないと始まらない。
この指とまれと言わないと言わないと。
麻雀は、だれかが賽子を振らないと始まらない。
サッカーはコイントス。
これは慣例であって別に意味があるわけではない。

少し、公式の試合を経験した者は、経験的に身つける。
ただ、年をとるにつれてできないと恥ずかしくなる。
それで、だんだん、遠ざかっていく。

野球を、九人でやるのも。
決まり事。ルール。
試合の前に、なぜ、九人でなければならないのか議論なんて始めたら、いつまで経っても試合なんてできない。
バレーが九人か、六人がいいかは経験則で定まるのである。
経験則なのである。
野球やサッカーの始まりは、やっているうちに、黙ていてもできるようになる。
誰も疑ったりしなくなる。
当然な事のように、自然に体が動くようになる。
そうなると、できて当たり前で、だんだん、適当になる。
だから何も教える必要がないと思い込んでいる。
教わる方もだんだん恥ずかしくて聞くことも憚るようになる。

兎に角、今の学校は逆らう事ばかり教える。なぜか。
それで学級崩壊してたら世話はない。
自業自得である。

しかし、仕事の始まりは、決まった形があるわけではない。
仕事の始まりの形を作る。
それが、最初はできないで泣くのである。
要は、当たり前だと思ていたことがいざとなるとできない。難しいのである。
早い話、声が出ない。
号令がかけられない。
集まれ、整列、気を付け、前へならえ、右へならえ、休めの号令がかけられない。
酷い事に、学校では悪だと吹き込んでいる。

声が出ないでつぶれる職場責任者はたくさんいる。
職場責任者は、審判のようなものだ。
自信をもって判定しないと、抗議を招く。
審判の判定に、新旧老若男女の別はない。
試合中は審判の判定に従うのが鉄則である。

最初、できない。声も出ない。
でも、勇気をだして組織の動かし方。
号令の出し方からやり直そう。

我々の祖先は、出だしの難しさを熟知していたから、形を作って、形で伝えた。
それが、礼儀作法である。儀式であり、象徴(シンボル)である。
それが、伝統でもある。

それを、学校では、形式だの、封建的だの、意味がないと頭から否定している。

出だしは、難しい。
第一に声が出ない。
だから、僕らは、子供の頃から挨拶なんかを通じって発生訓練をさせられた。
今は、挨拶をすること自体訳の分からない理由をつけて、否定している学校すらある。
今の子は、挨拶もできないから、人間関係が築けない。
最初のところでつまずく。
それも、引きこもりの原因。
思想とか、哲学の問題でなく。
仕来りや作法の問題。

皆をまとめめようとする時。
集まってくださいの第一声が出なければ、始まらない。
しかし、この第一声が出ない。

指示されたり、やることが決まったら。
どうするって。
最初に聞かれた。
なぜなら、何も決まっていないし、漠然としているのだから。
放置したら、うやむやになる。
何もしない内に消えてしまう。

だから、間髪なく始める。
まず頭の中にある事、指示されたことを、確認しながら整理する。
これは、一人ではできない。
かといって、頭の中を整理しない内に、直接、聞くわけにもなかなか聞かない。

以前は、最初に、どうすると聞くと。
誰々の意見を聞きますとか。
○○を担当としますとか。
一旦、何々に言いて整理させますとか、いいたもの。
関係者の顔合わせでもしもすかといいたことから始める。
要は、コアのメンバーを結成する。
それが手始め。
一人でやろうとしない。
一人で始めない。

面と向かって話さないと、自分の考えを理解していないのは、当たり前なんで。
口は話すためにあると言われたし。
相手を信じなければ、相手に任せる事はできない。
他人に任せられなければ仕事は始まらない。

そのためには、鏡になる相手が必要である。
それが、補佐役だし。副の役割である。

なぜ、一人では始まらないのかと言えば、組織は、一人ではできないからである。
組織は二人以上、三人なると、自己増殖を始める。
一人では、始まらない。

補佐役の役割は、主の考えを整理してやること。
これが、結構難しい。
要は、相手の言ったことをおうむ返しに、合いの手を入れるように返す。
でも、聞いているうちに自分の我が出やすい。
チョッとチョッと自分の意見をまじえようとする。
そうすると整理がつかなくなる。
つい余計な事を言う。
その一言がつまずきのもと。
補佐役は主に寄り添う事が求められる。

出だしは、難しんだよ。
本当に難しい。
簡単だと思はない事さ。
簡単じゃないと思っておくことさ。
出だしがちゃんと出来たら、一人前。
最初はうまくいかなくて泣く。
泣いて覚えるしかない。
出だしは、やらなければわからない。
何度も、何度も、挑戦しつづけるしかない。
出だしでつまずくと後が続かない。
だから、間違えたら、出だしに戻るしかない。
だから、出だしを、はじめの形を作って戻れるようにしておかないと。
やればやるほど、底なし沼に嵌る。
結婚だってね。
だから、結婚式を挙げて、最初に、神に誓うんだ。
誓うんだ。

確認の意味がわかっていないんだよ。
確認は確認さ。
言われて事、指示されたこと、注文、結論を忠実に再現する事。
整理したり、集約したり、言い換えただけで、確認にはならない。
自分の作為が入るから。
だから、確認というのは、簡単そうで難しい。
同じ事を言ってるつもりでも、少しずつ違ってくる。
最初は一点から発しないと統一性が保てなくなる。

簡単な事ができないから辛い。
簡単な事は、何故か、素直に聞けない。
馬鹿にされてるようで。
しかも、認めがたい。
簡単なことほど、できない事、やってない事を認めがたい。
でも出だしは、何でもない簡単な事。
言われたことを、そのまま、記録すればいい。

出だしの指示は、誰でも実行できることにする。
だからとりあえず、言われたことを書き写し、それを確認する。
ただ、それだけ。
でも簡単な事を、行動に移そうとすると、これが難しい。

確認というのは、動作、行動に置き換える事に意義がある。
例えば、指示されたことを書いて、見せる、動作に行為に置き換える。
それによって指示を客観的に見れるようにする。

確認というのは、動作、行動に置き換える事に意義がある。
例えば、指示されたことを書いて、見せる、動作に行為に置き換える。
それによって指示を客観的に見れるようにする。

出だしで難しいのは、決められたことや指示されたことを、いかに、行動に移すかなんだよ。
確認というのは、動作、行動に置き換える事に意義がある。
例えば、指示されたことを書いて、見せる、動作に行為に置き換える。
それによって指示を客観的に見れるようにする。
指示を聞いただけでは、指示を理解した事にはならない。
行動としてあらわされた時、はじめって指示をどの程度、理解しているかを確認できる。

簡単な事を実行に移そうとすると難しい。
だから、素直に、謙虚に、順になろう。