学ばないと人は成長しない。
学ぶためには、自分の至らないことを自覚する事である。

自分から教えに行っても、相手が学ぶ意志がなければ教えられない。
善意で自分から教えようと試みても、相手は受け付けない。
鬱陶しがられるだけである。
自分から学ぼうとしない者を指導することはできない。

学ぶ事を知らない者は、成長しない。
どこまでいっても、一人である。
独りよがり、自分勝手である。
なぜなら、周囲の人や環境から学ぶ事ができないからである。

自分から頭を下げて教わる事を学ぶ事である。

学ぶ事を億劫がていては、学んだことが身につかない。

人は生きる術を身につけなければ、生きていけない。
生きるために必要な事は、強要しなくとも学ぶ。
学ばなければ生きられないからである。
今の学校で教えるのは、世の中で役に立たない事である。
読み書きそろばんは、学問ではないと勘違いしている。
だから、子供たちは、学ぶ事の意義がわからない。
なぜ、勉強するの。
答えは簡単である。
生きるため、自分を生かすためである。
それが、自覚できない事は学べない。
だから、学校では、学ぶ事を強要する。

今の学校は、学ぶ事を強要するだけで、真に学ぶ事を教えられない。
自分から学ぶ事を教えないと、学ぶ事ができないからである。
驕り高ぶる者は学べない。
学ぶというのは、自分の至らなさを認める事である。
自分の限界を知る事である。
だから、基本は勉強会にある。

仕事の基本は、学びにある。
一人前の仕事師になりたければ、学ぶこと覚える事である。

日本人は、仕事場を道場と心得てきた。
職場は、実践的な学びの場、修行道場。
故に、神聖な場とし、清潔に、清めてから仕事にかかった。
職場には神が宿るとしたのである。

なぜなら、同じ職場にいる者は、心を一つにして、一つの仕事をやり遂げ事を目標としたからである。

一生を通じて学ぶ事である。
学び続ける限り、老ける事はない。

新しい事業や手法、システム開発、改善、改革、組織の編成替えなどがあった場合、全体の水準や認識、用語などを統一する為に勉強会を持ちる事は、一般的で、とっつきやすいとされる。

だからこそ、勉強から、勉強会から始めるのである。

勉強会は、まず、責任者(マネージャー)を決め。
責任者が担当者(ファシリテター、レポター)を決める。
担当者は主催者(オーナー)、責任者から勉強会の意図、主旨、目的を聞いて学習プランを立て、主催者と責任者の承認を受ける。
これは、職場の勉強会と限らず、研究、開発、大学、セミナーなどの勉強会でも一般に共通している。
学習プランの項目は、目的、時間、場所、手段、出席者等で。
これらの項目を、一つひとつ、主催者と責任者の意見を聞きながら組断っていく。
責任者は、日時、場所、出席者などを主催者と了解を受けながら手配する。
担当者は、学習プランの構成や進行、手法を定め、それに沿って、レポートや資料、教材を選ぶ。
また、当日までにやっておくことや用意する物を指定し、必要に、応じて事前に出席者に通知する。
事前配布する資料がある場合は、期日を決めて、資料を作成し、配布しておく。
細かい数値データや、ボリュームのある資料は当日配布しても目が通せないから、なるべく早めに手渡しておくのが礼儀である。
勉強会の手法には、講座(セミナー)型や参加者体験型(ワークショップ)等がある。

セミナータイプには、プレゼンテーション、パネルディスカッション、輪講、ライトニングトークス等がある。
ワークショップの手法には、ディベート、ロールプレイ、フィールドワーク、アサーティブトレーニング、ブレーンストーミング、シミュレーション、KJ法、パネルディスカッション、フィルムフォーラム、ランキング、ゲームの活用などがある。

老いた者は若者に学び。
若者は、老いた者から学ぶ。
互いに経緯を失ったら、世の中の進歩は止まる。
今は、若者は年寄りを馬鹿にし、年寄りは、若者の所業を嘆くだけ。
これでは、国が衰退するのは必然である。

自分がわからない事は、笑ってごまかすか、怒って、相手の性にして逃げようとする。
誤魔化したり、逃げているかぎり、自分の居場所がなくなる。

学ぶ事である。
自分の、失敗や過ちから学ぶ事である。
自分の至らなさから学ぶ事である。