何にしても、いきなり出口を探そうとしない。
入口を探し、足元を固めてから、一歩いっぽ確実に進む。
例えば、管理職教育。
まず、教育を必要としているかどうかを確認する。
中には、教育を必要だと思っていないものもいるかもしれない。
そういう者はとりあえず抜けてもらう。
教育を必要だと思っている人は、手を上げてと言って、手を挙げなかった人ら出ていってもらう。

次に、当事者から教わりたいところ。何を教わりたいかを探る。
それは、何を困っているかを聞く事だよ。
管理者が、困っていることが、教わりたい事だから。

自分の言うことを聞かない。
部下の気持ちがわからない。
どうしたらいいかわからない。
何から始めたら(聞いたら)いいかわからない。
部下の気持ちがわからない。
何をやっているのかわからない。
どう指示したらいいかわからない等など。
この辺がわからないと、具体的な方策は建てられない。
物事には、順序がある。

群盲、象を撫ぜる。真っ暗闇の中で、皆で象の剥製を撫ぜているような事。
言っている事は、皆、違うけど間違っているわけではない。
部分だけ見て、全体が見えていないだけ。勘違いしない。
だから、自分だけが正しいと頑固に主張しないで、自分が見えているところを皆がわかるように紙に書いたり、絵にしたりする。
皆が得ている情報は、断片にすぎない。
自分が得た断片と他の人が得た断片を持ち寄り、つなぎ合わせて、まず、全体像を再構築する。
同時に、浜松の今、静岡の今、東京の今を掌握することはできない。

それぞれには、それぞれの立場、筋があって。立場や筋は外せない。
トップには、トップの立場、筋があり。管理者には、管理者の立場、筋があり。
担当者には、担当者の立場、筋がある。
それが道理なの。

山頂からは山頂からしか見えない風景があって。
裾野には、裾野でしか見えない事がある。
どちらも重要。どちらも事実。

ウクライナのように敵国から侵略されても、当初は、国境周辺は、阿鼻叫喚状態でも、首都キーウは、日常生活は変わりない。
そのうち、ミサイルや砲弾を撃ち込まれ、遠くで銃声が聞こえ始め。
まだ、大丈夫、まだ、大丈夫と言っているうちに、気がついたら目前に敵戦車が現れ、その時は、逃げられなくなる。

山の頂から見える敵と、偵察で探知できる敵、拠点の奥深くで見える敵の姿は皆違うし、しかも、各々事実である。嘘を言ってるわけではない。
ただ、断片なのだ。
誰が、正しくて、誰が間違っているかではなくて。
それぞれが、どこで見ているかが問題なのだ。

一神教徒は、何を信じるべきかも強要するのである。
だから、侵略的にもなる。
神は、唯一なのだから。

今の日本人は、宗教は、禁欲主義、平和主義、非暴力主義、無抵抗主義、人道主義だと決めつけている。
しかし、宗教には、強欲で、暴力的、残虐、非人道的、好戦的な一面があることを忘れてはならない。
だから、多くの宗教は、国境や人種、民族を超えて、拡がったのだ。

戦車の前に立ちはだかり、銃口を前に抗議する。
崇高な精神には、感銘するが、それで暴虐が収まるわけではない。

プーチンは、秘密警察、情報部出身だということを忘れてはならない。

沖縄の海は青く、穏やかに時間は流れていく。
沖縄に行くと、かつて、この島で地獄のような戦いがあった事なんて幻。
しかし、悲惨な戦争があったのは動かしがたい事実。
平和で穏やかな日常も一瞬で地獄と化してしまう。
しかし、人は、今しか見ない。
地獄と化した時に何を守らなければならないのかを思い知らされる。

私も、唯一の神を信じる。
しかし、私の信じる神は、超越的神である。

神は問う。
個人の問題なのか。
制度体制の問題なのか。
思想の問題なのか。
それとも、人間の本質の問題なのか。

なぜ、人間は、あれほど無慈悲になれるのか。
古来、英雄豪傑なんて残忍、残虐、無慈悲なものさ。
しかし、現在の戦争の無慈悲さは、底なしに救いがない。
それは、人を、物のように扱う無慈悲さだからだ。
命に対する畏敬の念が欠片も見られない。

神は、人に愛を与えた。他人を愛おしみ、憐れむ心を与えた。
それが、神の意志である。

その代わり。人は、生きるためには、他の生き物を犠牲にしなければならない。
それもまた、神の摂理。

何を信じたらいいのだろうか。
遠い記憶なのかもしれない。
それは、自分がこの世に現れるずっと以前の記憶。