経済の状態は、「お金」の動きを見ればわかる。
状態と動きは不可分な関係にある。

ただ、「お金」の動きの意味を知るためには、「お金」の事を知る必要がある。
まず「お金」の働きである。教科書では、「お金」の働きは、交換、尺度、価値の保存の三つだと書かれている。しかし、この程度では、「お金」の本当の働きは、網羅する事はできない。

自然科学の数学と経済の数学は、別の体系だと思た方がいい。

重要な点は、「お金」は情報、それも、数値情報だという事である。

「お金」の働きは、第一に、支払いを準備する。第二に、交換。第三に、分配の手段。第四に、生産と消費とを関連付ける。第五に、価値の一元化。第六に、価値の尺度。第七に、価値の保存。第八に、価値の数値化である。第九に、価値の名目化、抽象化、象徴化。第十に、経済的価値に流動性を持たせる。第十一に、経済的価値を匿名化する事の十一の働きがある。

「お金」の本源的働きは、支払いを準備する事である。それは、「お金」の働きが交換と分配を目的としている事に起因する。

「お金」は、支払いを準備する。支払いを準備して資金の過不足を補う。
「お金」がなければ、市場から必要な資源を買う事はできない。
生活に必要な物は市場から得るから「お金」がなければ生きていけない。
「お金」は、使えばなくなる。なくなれば、「お金」は不足する。
人は、働いて「お金」を補給し続けなければ生きていけない。
それが、市場経済の根本的な仕組みである。
「お金」が不足する事で生産活動が機能し、「お金」を使う事で分配が実現する。
消費者が、財を市場から買う事で、生産主体は収入を得る(入金)。支払準備として賃金を働きに応じて支払う(出金)。家計(消費者)は、働いて得た賃金(所得)で、生産主体が生産した財を購入(支出)し、消費する。生産と消費は「お金」によって結びつけられている。
生産者は、消費者であり、消費者は生産者でもある。
その繰り返しによって経済の仕組みは動いている。
そして、「お金」は支払いを準備する。

「お金」は交換の手段であり、交換価値を象徴している。交換を前提として「お金」は成立している。「お金」の働きは、交換によって発揮される。
分配は、市場で「お金」と生産財とを交換する事によって実現する。
「お金」は、使わないと、即ち、生産財と交換しないと効用を発揮しない。

「お金」は、分配の手段だという事である。分配の手段である「お金」は、相対的尺度である。
長さや、重さ、温度などを測る絶対的尺度、自己完結的尺度ではなく。
需要と供給、市場環境等に影響される相対的尺度である。

「お金」は、仕事によって生産に関わる事で獲得し、市場から必要な財を購入する事で効用を発揮する。生産に関わる事で獲得し、消費する目的で支出される。
所得と支出の二つの働きによって「お金」は、生産と消費とを結び付け、経済を制御している。

価値の数値化と価値の名目化、抽象化、象徴化は、経済的価値を情報化する事を意味する。
価値の数値化、抽象化、象徴化によって経済的価値は、一元化する事が可能となる。
「お金」によって経済的価値が一元化される事で、経済的価値の演算が可能となる。
「お金」は、経済的価値を集合化する。

価値の一元化は、「お金」の働きの中でも重要な働きの一つである。
経済的価値は、「お金」によって一元化される。
貨幣単位と物理的単位を掛け合わせる事で、経済的価値を同一の次元で演算する事が可能となる。
価値が一元化される事で、馬と自動車、家といった異質な経済的価値を足したり、引いたりといった演算をする事が出来るようになる。また、比較する事も可能となる。
賃貸住宅と持ち家住宅の価値を比較する事もできるようになる。
労働とか、時間とか、芸術、演劇、音楽、権利、電気、ガス、土地、長さや面積、体積、距離、成果、能力といった異次元な対象の経済的価値も同一の次元で演算したり、評価する事を可能とする。

価値を数値化するというのは、経済的価値を何らかの属性によって集合化、グループ化する事を意味する。例えば、リンゴ一個、二個と数えるのは、リンゴと属性によって対象を識別することを意味する。つまり、数値化というのは、特定の属性によって対象を分類化する事でもある。
また、対象を等級化したり、差別化したり、区分化したりする事も細分化する事も可能とする。

「お金」は、情報である。「お金」は、働きである。「お金」は、物理的実体を失う、即ち、無形になっても機能する。それは、「お金」の本質が情報であり、働きにあるからである。
その証拠に近年、「お金」は、信号や記号、記憶装置の中の記録に変質しつつある。
「お金」は、抽象であり、象徴なのである。
「お金」は、交換価値を象徴した値である。

「お金」は、支払準備として交換価値を保存する。この様にして保存された価値は、資産となり、余剰資金を形成する。また、金融機関にとっては、保存された支払準備は負債となる。貸付とは、支払準備を貸与することを意味する。

「お金」は、負の価値だという事である。つまり、「お金」は、借金を元とし、-を意味する。
「お金」が負なのに対して、正の価値、+を意味するのは、物や働きである。
市場取引は、常に、+-、ゼロを前提としている。
「お金」は、「お金」単体では効用を発揮しない。「お金」は、尺度なのである。
「お金」は、「お金」が指し示す対象と一体になって効用を発揮する。
「お金」は、使わなければ無価値なのである。それ自体が使用価値があるわけではない。
「お金」は、交換価値を象徴した値なのである。

「お金」は負(-)の空間を作る。

「お金」の働きは、残高で測られる。貨幣単位は、自然数である。負の数や小数は成立しない。故に、計算は、余り算である。
経済主体、部門の経済状態は、残高、出金、入金を測る事で推測される。
市場は、経済主体、部門の売り買いと貸し借りによって成り立っている。

貨幣価値の計算は、基本的に残高主義である。「お金」は、元々は、コインにしろ紙幣にしろ物だからである。
紙幣とか、コインといった物質に貨幣単位、交換価値を象徴させた物だからである。故に、物を数える様に貨幣単位は決められた。複式簿記の計算は、加算的減算を基本としている。
貨幣価値の演算に用いられる数は、自然数で、小数や負(-)を含まない。
故に、基本的に余り算、繰り上げ算になる。余りや繰り上げ、端数をどう扱うかが重要となる。

「お金」は負の空間を作るが、演算は、基本的に経済は、負の値はない。残高が基本だからである。
故に、資産が負になる事は、負債に転化したことを意味する。負債が負の値になる事は、資産に転化した事を意味する。計算上、資産や負債が負の値をとる事はない。あるとしたら、経済活動が破綻したことを意味する。

経済的価値を定めるのは、市場取引である。「お金」が経済的価値を決めるのでも、経済的価値を持っているわけでもない。「お金」は、経済的価値を決める為の尺度、単位である。
経済的価値を決めるのは、売り手と買い手、そして、生産財である。

経済的価値に、流動性を持たせるとは、経済的価値を持ち運びしたり、移動・移転する事を可能にする事である。「お金」は、経済的価値を抽出して物や信号、記号、数値に置き換え、持ち運んだり、移動する事を可能とし、他人に譲り渡す事で移転する事を可能とした。

「お金」は、移動したり、譲渡する事が可能である。つまり、「お金」には、所有権がある。「お金」は、所有する事できる。これらは、現金の流動性の根拠である。

「お金」の匿名性とは、「お金」には、履歴が残らないし、また、所有者や手段を選ばない事を意味する。これは、「お金」の利便性でもあるが、犯罪の原因ともなる。

「お金」の働きは、入力と出力による。つまり、入金・出金、収入・支出によって力が発揮される。

見るべきところは、収入と支出の構成と質、関連性、傾向である。
収入と支出の項目を、どう結び付けるか。収入と支出を構成する課目の傾向、全体の傾向をどの様に見極めるか。それによって経済の先は見えてくる。
収入は、基本的には、所得と借入金、そして、資産の取り崩し・売却、贈与・相続。支出は、消費支出、借金の返済、投資(主として建築費だが、災害や病気、結婚、教育も含む。)、貯蓄である。

一つの経済主体の支出は、他の経済主体の収入になり。一つの経済主体の収入は、他の経済主体の支出となる。そして、取引の総和はゼロに均衡している。
一つの部門の支出は、他の部門の収入となり、一つの部門の収入となり、他の部門の支出となる。
そして、市場取引の総和はゼロに均衡する。一国の収支と貸借もゼロ和に、均衡する。
これが水平方向と垂直方向の均衡である。
通常企業会計では複式記入されているが、一つの取引を取引総体で見た場合、つまり、売り手と買い手双方を一体とすると水平的複式記入と垂直的複式記入が行われることになり。国民経済計算では、四重記入を採用している。

経済の基礎は、消費にある。消費とは何かというと、生活である。
生きていくために何を必要とするか。言い換えると何を消費するか。
更に、何に対して支出するか。
つまり、どの様な生活を営みたいか。その為に、何が必要なのか。
何を、どれくらい、どの様に、生産し、あるいは、調達するのか。
そして、生産し、あるいは、調達した資源をどの様にして、何を根拠、基準にして分配するか。
それが、経済の一番の課題なのであり。それが、経済の基本なのである。
「お金」は、人の生活を成り立たせるための手段に過ぎない。
しかし、今の、経済は、生産に偏っている。そして、「お金」が勝ちすぎている。
だから、生産したものをいかに消費させるかという転倒した考えになるのである。
歪んだ、考えや邪な思いに支配されるのである。
経済の根本は、人の生き様であり、人生なのである。
どんな生活をしたいかの本質は、どんな生き方がしたいかである。
欲望に基づく生き方を望む人は少ない。
物事の根本が失われ、「お金」の働きだけに支配されるから、
人は、経済を制御できなくなるのである。

「お金」が悪いわけではない。「お金」は道具に過ぎないのである。
「お金」に支配される。「お金」の奴隷になる。
「お金」に囚われる人の心の問題である。