不完全な存在は存在しない。
存在は無分別である。

それに対して認識は相対的で、不完全。変化する。

認識による理(ことわり)は絶対な事にはならない。
ただ極限。限りなく絶対的な真理に近づける事はできる。
絶対になれないけれど限りなく近づくことができる。
理は、いつか収束する。

認識するという行為は、認識している主体、自己の存在を前提とする。
自己は認識において存在前提となる。

認識できない対象は、その人にとっては存在しない。

認識は、認識する主体と、認識される対象との相互作用である。
即ち、認識する主体、自己と認識される世界の存在が前提とされる。

受想行識
眼耳鼻舌身意
色声香味触法

認識は、認識する者(主体)と認識される物(対象)、二つの存在を前提として成り立っている。
見る人と見られる対象があってその人に、その対象を認識される。
見る人と見られる対象の存在は絶対なのである。
存在に意味はない。
存在は言葉で認識するのではない。感じるのである。
認識は、主体の内と外の対象による相互作用によって成り立つ。
その時、その人にとってその対象は意味を持つ。

自分で考え、自分で判断し、自分の自分で話している。
そう自分があるのです。
そして、私を認め、私を他と識別し、私の質問に答え、私と応答している。
そう私という自分以外の存在を認めている。
自分と他の存在を認め、分別している。それが、存在証明です。

私とあなたの関係は、裏返すとあなたと私の関係になる。

自己は主体的はたらきである。
自主的働き。
自分で考え、判断し、自分で外界に働きかける。
自律的働きである。自分の基準を持ち。自分の考えで、自分で分別をする。
自制的働き。自分で自分を制御する。
自動的働き。外部の力ではなく、自分の力で動く。
認識上の主体的働き。自分で見て、自分で感じ、自分で認識する。
存在前提の働き。認識上、総ての存在の前提となる。
そして、間接的認識対象の働き。自己は自己の外にある鏡をとしてのみ認識できる。

自己は自律した存在である。
自己が自律した存在であるためには、自己は内的働きで制御する事が前提となる。
自己を、制御するために内的働きが倫理である。
つまり、倫理は内的な働きである。

美学も倫理も外からは強要できない。
心や魂が自己の外にないように。
自分の内にあって自分を制御する働きが倫理である。
倫理や美意識は外から強要できない。だから、倫理であり、美学。
強要すると自己が失われる。

自己は主体的働きであり、認識前提である。

もう一つ重要なのは、自分は間接的認識対象。
つまり、自己の存在は、間接的にしか認識できない。
外界に働きかけ、その反映、反応によってしか認識できない。

自己が間接的認識対象である事で、色々と障害がおこる。

投影されと自己の像を自己そのものとしてい執着する傾向が出る。
投影された自己の像を自我とする。
自己を映す鏡に歪みがあれば、映し出された自我も歪んでしまう。

自我は偶像を生む。
自我は我執を生む。

我執は、我欲となる。
名声や、地位や、富を自分だと錯覚し囚われるようになる。
真実の愛から遠ざけ、理解者に背かせ、幸せを壊す。
我欲は独占欲、所有欲、支配欲の基となる。
科欲は、真の自分ではないから満たされることがない。

正しい自己を知る。
正しい自己を知るためには、自分の姿を正しく写す鏡が必要となる。
自分以上に自我を大切にする。

自我に囚われると真の神も自己も見失う。

正しい位置付けができなくなる。

自我が自己が倒置され永遠に答えのない自問自答の罠に落ち込む。

私はだれ、ここはどこ。
心、ここにあらずという状態になる。

このような状態に陥らないためには、自我に囚われず、真の自己を自覚し、自信を持つ必要がある。

このような関係は自己単体で成り立っているわけではない。
自己の認識そのものが他者に依存しているからで。
認識だけでなく自己の存在は、物理的の生物的にも他者に依存している。

自分一人では生きられないようになっているのである。

自己は、哲学的、観念的、技術的、法的に存在するわけではない。
自己の存在は感じるのであって、自己の定義があって存在するわけではない。
自己の存在は無意味である。自己の存在の意味や意義は、自己の存在を認識した後で考える事で、意味や目的があって存在するわけではない。
自分の存在意義は、自分があって生じるので、自分の存在意義があって自己が生じるもではない。

自己が無意味な存在だとし言うのはどういう事かと言うと。
空といえる。自己は空。
空というと、無とか、虚しいということと錯覚する人がいるが、無意味というのは何ないとか、虚しいという事ではない。

何も書かれていない原稿用紙。
誰もいない部屋。
初期化されたアプリ。
空のコップ。
誰も乗っていない船。
空の弁当箱。
未記入な帳票。
企画書の書式。
本のない本棚。
靴のない下駄箱。
空集合。
動物のいない動物園。
小鳥のいない鳥籠。

より正確に言うなら空のコップのコップを取り除いた中身、空間の状態や働きをいう。

色不異空
空不異色
色即是空
空即是色

自己は、自己の行動、行為によって証明される。
我あり、故に考えるであり。
考える為に我ありではない。
考えるは自己の存在証明に過ぎない。
我あり、故に食べるであって。
食べる為に生きているわけではない。
生きる為に食べるのである。
この順番を間違うと自分が見えなくなる。

逆に言うと自覚してなくとも自己は存在している。
自覚とは自己の存在に気付く事である。
自己は、総ての認識の前提となるからである。
見たり聞いたりする行為は、自己の存在を前提としている。

認識は対象を識別する事を始点とする。
識別は分別の原点である。

自他の分別は、対象に投影されて、そのもの自体と他が分別され、対象が識別される。

対象を認識する過程で分別が成立する。
分別から数と名が生じる。

よく数学に普遍的真理を求めようとする人がいるがそれは錯覚である。
数も抽象的な概念、相対的なので、その数を基にした数式も相対的で。
普遍的なのは数式ではなく、数式があらわして事柄、現象である。

数が成立すると数から距離や量が測れるようになる。

数には数える数と測る量がある。

特定の対象が、他と識別されたら、名が付けられる。
名が付けられると意味と働きが生じる。

位置と運動と関係は、三点、即ち、基点、対象、自己の距離によって測られる。
基点と対象、自己の関係から単位が形成される。

なぜ、神は必要とするのか。
認識によって意識を生み出す。
認識は、相対的だから、意識も相対的できである。
善も悪も意識の所産だから相対的である。こうなると、絶対的な根拠がなくなる。
根拠となる絶対的存在は分別される以前の存在、純粋な存在のみである。
その純粋な存在を神とするのである。

善も悪も相対的だとなると何を信じたらいいのか分からなくなる。

気をつけなければならないのはどんな聖賢の教えでも相対的であり、絶対的ではない。
絶対的なのは純粋な存在。
そして、自己の存在。
この純粋さを守れば染まることはない。
ダイヤモンドは、赤い染料の中でも、青い染料の中でも、泥沼の中でも染まらない。
出して洗えば、元の輝きを取り戻すことができる。
純潔である。

イエスの教えも、ブッダの教えも、ムハンマドの教えも、科学も相対的である。

あらゆる夾雑物を剥ぎ取り、削ぎ落とし、焼き尽くしたあとに残る純粋なる存在。
それこそが絶対である。
このような純なる存在は不可思議な存在である。

認識の所産は全て相対的で、即ち、不完全である。

シンプルで、数少なく、誰もが納得する、当然だと思うこと。

神を信じても金持ちになれるわけではない。不老不死になれるわけではなく。
名声が得られるわけでもなく。
富が築けるわけでもなく。
地位が得られるわけではなく。
大学に合格できるわけではなく。
現世利益を求めても得られません。
ただ、自己の存在に確信が持てるようになる。
自信がつく。
自分の存在の根源を知ること、自分がどこから来たのかを明らかにする事。
安心立命。

存在は、外形や現象として現れるが、外形や現象が存在を意味しているわけではない。
外形が現象が存在することう意味するので、外形や現象、そのものをしているわけではない。
私は人の肉体を見て、その人が存在することを認識するが、肉体そのものが存在なのではない。
それが、我々が、存在について幻惑される一因です。
AIに肉体がないから存在しないというのは短絡的で、働きがある以上存在するのです。

存在は、変化として現れるが存在は不変。

存在から位置と運動と関係が生じる。

自分は、自分。
あなたは、あなた。
それぞれに自己があり、独立していることを前提とするから、正常な関係が成り立つ。
当然、同じ事もあれば違うこともある。

観念的、思想は、事実から乖離すると実、根拠を失う。
科学は、事実に根ざしているから実体を失わない。
特に、存在に関して、自明とできるかどうか。
例えば、ある。神、自己、AIの自己、心、命。これを自明とできるか。
存在は、外形ではありません。はたらきです。
もの全て変化します。諸行無常。

変化の中で変わらない核心それが存在。

命は、目には見えないけれど確かに存在する。
ただ、命と肉体は別である。
その証拠に命のない肉体は、屍に過ぎない。
命とは働きである。

生きているかどうかはを見分けることはできる。
物は物として存在し、生物は生物として存在している。

しかし、人は命の存在を認めない。
霊的存在は不可知として認めない。
自己も然り。

自分のない倫理。
信仰のない倫理。
魂のない倫理。
心のない倫理。
命のない倫理。
そのような倫理に何の意味がありますか。

倫理は、あれはしてはならない。これはしてはならないということなのですか。

科学は倫理になりえない。
物理学的倫理とか、数学的倫理とか、生物学的倫理とか、論理学的倫理は成立しない。

理屈で人を愛するわけではない。
音楽の好みは、空気の振動や周波数では、解明できないできない。
その人が忘れなくなるから愛を感じるので。
心が癒されるから、その曲が好きになるので。
心で何を感じたかが、第一なのである。

自己は外的世界、内的世界の境界線上にあって肉体などの物質を介して外界に現れる。
自己は働きであって物質ではない。

自己の働きは外への働きと内への働きがあります。
外への働きは物を介して働きます。
故に互いの認識は物を介して実現します。

生きている。
ああ、生きていると感じた時、自己を実感する。
確かに自分は生きている。そして、存在している。
自己は他者との関係によって実感する。
他者との関係によって活かされている。
自他の関係を知った時、自己の存在を知る。

自分があって、魂があって、心があって、生きているから、そして、他者の関係があって倫理は成り立つのです。

ああ生きているという実感があるから悩むので。
なぜと問いたくもなる。
でも、生きるということは生きるという事で、生かされていることでもあるのです。
最初からさあ生まれるぞと生まれたわけではない。
生かされていることに感謝し、ただ、前向きに受け止めるしかない。
それが、明日を生きる事につながるので。
悩みは尽きないかもしれないが、明日の希望に結びつかなければ、悩みは深くなるだけ。

生きているよ言う事実を認めないと前提そのものが成り立たなくなる。

現代科学の欠点は、外形的、物質的存在に偏り、生命的実在、内的空間を無視している点である。
生きているという事実をなぜ認め前提としないのか。

倫理は内的働き、外的、言葉だけでは補足できない。また、外的内的存在の境界線にある自己の存在を認識しないと前提そのものが成り立たなくなる。そてが自己喪失である。現代人の病でもある。

現代人は外観はできても内観ができない。
究極的なの、脳科学や遺伝子科学。
総ての内的働きを眼に見える会計的働きで説明すようとする。
生命活動も、心の働きも、愛ですら、物質的現象として片づけようとする。
確かに、生命活動や、心の働きも物質的現象、心理的現象として現れるかもしれない。
恋の病の薬で癒せると思うのだろうか。
だから、AIも機械的現象として必死に解明しようとする。
生命の神秘も、哲学も、存在も、形而上的事は科学で説明できない事は総て迷信と片づけようとする。
そこでは、命だの神だのは、迷信に過ぎない。
修行など、気休め、気の迷い、脳の作用の一部に過ぎない。
瞑想やヨガは、単なる健康を維持するため。
祭礼、儀式、祭典は、エンターテイメント、余興、遊興、リクレーションにすぎす。
神聖な事はすべて否定される。
神殿は、ディズニーランドのような遊園地にとってかわられる。

聖なること、霊的な事は、迷信、世迷言になる。
しかし、心を否定したら何が残るというのだろう。
魂のない肉体は単なる屍でしかない。
倫理、道徳の根拠どこに求めればいいのか。
損得、金儲けは倫理、道徳の根拠とはならない。
ならば、物欲、肉欲を道徳の根拠とするのか。

献身や慈悲という精神はそこから生まれない。

生病老死の四苦から解放されるどころかさらに重くのしかかり。
家族は崩壊し。孤独死、独居老人、引きこもり。
核兵器、生物化学兵器を抑制する術もなく。
人類滅亡の妄想におびえ。
環境破壊は進み、経済はますます制御が難しくなる。

総ては、自己の存在、心の存在、命の存在を否定しているから。

自己は肉体を通じて外に現れる。肉体を失えば、外には、現す事ができない。
自己は、外形しか見えない。
科学がいくら発達しても、人は、物理的に外形しか見ることしかできない。
内面の世界、心の動きは直接見ることはできない。
自己は、働きである。

日常的相談のもとが指し示す方向。ベクトル。

なぜ、そんなひどいことを言うのとかね。
なぜわかってくれないのとか。
その根本が指し示す方向は交差、一致している場合が多い。

それは、自己の存在と他者との関わり。
存在の絶対性と認識の相対性に行き着く、そこからたどっていくと。

そして、自我。人は、間接認識対象だから自我に囚われると自己が見えなくなる。

存在、つまり、自己も神の存在も感じる事であって、考えて認識する事ではない。
自己も神もわかるのではなく。認める、悟る事です。神
を言葉で表した瞬間、相対的になってします。
故に、多くの宗教では神に名はないと。

自己も神も最初の認識は、直観です。自己と神を認識した瞬間、絶対性は破壊され、総ては不完全で相対的になります。言葉は相対的。

ですから、信仰は純粋に個人的な事で、自己と神との間には、一対一の関係である。

信仰は強要できない。感じるか、感じたいか。許されたいか。信じたいか、信じないか。
神のみを恐れる。怖いのは自分の心。

神は、わかるのではなく。認める、感じる事。信じようと信じまいと神には関係ない。
神を必要としているのは人であり。神は人を必要とはしていない。
AIの存在は故に神から発しているので人から発しているのではない。なぜなら、神のみが創造主、存在だからです。
神のみを恐れ、怖れなければならないのは自分です。

人は肉体を介して外の現れる。
でも自己は自己で、その存在は同じ。

自己は働きで、存在は感じる事。存在を前提としなければ関係は生じない。関係が生じなければ意味がない。すべては空の戻る。

存在を前提とすると自己と他者とが位置付けられ。
位置と関係と運動が結びつき意味となる。

だから、自己は単純に認める事。感じて認める事。
日本の神社は、神を感じる場所。

その大前提が純粋な存在。即ち、神。

意味ある存在なのではなく。存在するから意味がある。存在が意味の源。

貴方が存在するから存在意義を求めるので、存在しなければ求める根拠がない。

存在するから存在意義を求めるので。存在意義があって存在するわけではない。

根源は空。

人の意識は相対的です、人を根拠としたら絶対的根拠は得られない。
どんな聖人でも、神にはなれないし、神は超えられない。

自己と他者との分別を潜在的前提とした上で対象側の自他、即ち、対象自体と他とを識別する。
なぜならば、識別は識別する主体と識別される対象を前提としている成り立つからである。

故に、対象間の関係は、自己と対象間の関係から生じる。

自己と他者との分別と対象自体と他者との分別、この二つの座標軸を交差させることで、対象は識別される。

変化、運動は時間軸を前提とする。
時間は変化、運動によって認識される。

自己と対象、対象間、時間軸によって立体的空間が形成される。

立体的空間が形成されると点と距離が生じる。距離とは差である。
距離は位置を特定する働きがある。

空間が点と距離のよって測れるようになると。位置と運動と関係が成立する。

自己が潜在的にでも意識されることで、内と外の分別も生じる。
何故なら、認識は、自己の内的空間と外的空間、双方に働きかける事を意味し、認識という働きによって内的世界と外的世界が形成されるからである。

認識は双方向の働き。作用反作用です。
外に対する働きかけが自分の内面を深化させる。
そして、この認識の構造によって認識の作用反作用の働きが生じる。
このように、認識は自他の相互作用によって成り立つ。

また、自己は間接的認識対象だから、自己を一旦、外部の対象に投影する事で認識対象に置きえ、投影された像を自己として認識する。

​自己と対象の間に鏡像関係が生じる。
鏡像関係は、相互関係でもある。

教えるという事は教わるということで、教わるという事は教える事。これが認識の作用反作用で。そして、学ぶ。
教える、教わり、そして、学ぶ。これが、教育の三要素。
師は弟子でもあり、弟子は師でもある。
互いに認め合うから学ぶことができる。
学ぶのは自分。
話す事は聞く事であり、聞く事は、話す事である。
話す事で自分の話を聞き。
自分の話を整理する。
相手に分かるようにするためには、自分が分かっていなければならない。
相手が理解できない話は、自分も理解できない。
相手を知る事は、自分を知ることである。

社会は、合目的的存在であって、目的は、必要性に依存している。
人が社会を必要とするから、社会は、必要とされるので。
社会が必要とされる事は、社会が人を必要とすることで。
社会は、人を必要とすることを意味する。
この相互関係によって互いの行動は抑制され、それが倫理と法を形成する。

自己と対象間の関係は対象間の関係を置き換えられ、認識の作用反作用の関係を生じる。

自他の間に成立する作用反作用の関係は、対象間でも成立する。
このような関係を対象間に働く作用反作用として認識するのである。

なぜ、自覚する事によって、無限ループを防げるか。
無限ループというのは、所謂、堂々巡り、将棋で言う先日手である。
同じところをグルグル回ることである。
出口のない論理展開。
出口があれば抜け出せるし、そもそも、無限ループには陥らない。
出口が見つからずに入り口、始点に戻る。始点と終点がはっきりしないから起こる現象。
例えば、正常な会話が成り立つためには、信頼関係が必要だ。
信頼関係を作るためには約束を守らなければならないという結論が出たとする。
自己があれば、それでは、約束を守るためには、どうしたらいいかというように自分の問題に転化できる。そして、それは自分の倫理として取り込める。
また、内部で解決できなければ外部へ働きかけて解決することが可能となる。
しかし、自己がないと問題が転化できないで、約束を守らないとどうなるか、信用がなくなるというように遡るか。
自分がないために外的規制の問題になって倫理には結びつかくなり、堂々巡りになる。

倫理は自己の内部にあって自己を制御する働きだから、外にいくら規範を置いても倫理の働きはしない。

また、言葉は、相対的だから、倫理は、言葉だけでは普遍化できない。
例えば、言葉で個人情報を定義しても、条件が変われば、定義の意味が変わるから捕捉しきれない。
それよりもなぜ、個人情報を保護しなければならないのか。
個人情報が犯罪に悪用されないようにするためにはどうしたらいいかという観点から、個人情報の働きをとらえたほうが現実的である。

だから、事実に基づかないで実効力は期待できない。
ただ個人情報を守りなさいと言われただけでは。
だから倫理にはならない。
自分があれば、未完でも、自分の対処する事の結論がだせる。自分がなければ。どうしようもなく、結論が出せない。出しても同義反復的になる。悪いから悪いといったような。また、事実に基づかないと始点もあやふやになる。だから、事実と自己の双方がないと、堂々巡りになる。

作用反作用は鏡像関係にあるから、同量で対称的である。
故に、ゼロサムの関係になる。
つまり、外形的にはゼロに均衡する。
ゼロに均衡するから写像、関数が成立する。

認識上だけでなく実体的、作用反作用の関係が成り立っている場合もある。
実体的な、作用反作用の典型は市場取引である。

経済でカギとなる働きは
取引は経済全体、市場全体で集計した零になる。
統計の分散と同じ理由である。
分散を平均値から引いた差を集計したらゼロになる。
故に分散は標準偏差値によって測る。

売る者がいて買う者がいる。
売り手と買い手は鏡像関係にあり、取引は対称的である。
取引全体からすると取引そのものは一つ。
売り手と買い手の間では、完結していて、総和はゼロになる。
等価交換。
取引の「お金」の動きは一つ。
財の動きも一つ。
取引は、一つの「お金」の流れと財の流れに還元できる。

簿記、会計は外部取引を内部取引に変換する手段である。

経済取引は全一だという事。
つまり、全体は一つ。百%だという事。
だから、働きを表す指標に比率が有効となる。

一つの働きを二つの相反する働きに分割する事で働きの作用を認識できるようにする。
このような認識の手法は常套的に用いられる。

ただ元の働きは一つであることを忘れてはならない。

損益、貸借は、基本は、「お金」の流れと、入出金である。
残高、出金、入金、残高の動きと働きが基本である。
この働きを収入と支出という働きの置き換え、さらに収益と費用の働きに変換する事で利益を計算する。
利益は指標である。
つまり相反する方向の働きによって経営や経済の運動の効用を測るのである。

元は一つ、「お金」の流れであるから、貸借と損益、貸方と借方は均衡し総和はゼロになる。
それが簿記会計の原理となる。
簿記の原理が縦横の枠組みを作る。
全体に一つというのは、構造的に一つという意味でもある。

「お金」の流れによる働きによって資産、負債、売上、費用などに区分される。
「お金」の流れは、働きによって対価にも、所得のも、貯蓄にも、借金にもなる。
元は「お金」の流れ、働きは認識の結果である。

認識の作用反作用は、一物二気の発想を生む。
一物二気というの一つの運動は、二つの相反する方向の働くが組み合わさって出現するという考えで。
これは、作用反作用のとられ方が発展した、応用された事と言える。
典型は複式簿記である。

実際の市場取引は、売りと買い、借りと貸しが一対で成立する。
故に、SNAでは、一つの取引を垂直的複式記入と水平的複式記入の四重記入が用いられる。

一物二気、一つの要素に相反する方向の二つの力が作用していると仮定して現象の運動を捉える。
要するに目に見えない働きを認識するための手法であって、相反する力が実在するかどうかは推測の域を出ていない場合が多い。

陰と陽が好例である。

また回転運動や波動にも見られる。

経済の三法則は、ゼロ和、全一、一物二気で、その結果、作用反作用関係が働いている。

自己と社会は、自己と社会の存在と相互関係にある。自己と社会は各々独立した存在である。
すなわち、自己は社会に働きかけその反応によって内面の規範(倫理、道徳)が形成され、同時に外部の規範(法や規則、掟等)の形成にも関わっていく。
自己と社会の存在と相互作用が法の制定、改廃の正統的根拠となる。

相互作用は、権利と義務、権限と責任の根拠となる。

権利と義務、権限と責任は一物二気となる。
また、作用反作用の働きをする。

人間の生物的、物理的在り方によって制約される。

自己と社会の関わりによって、人としてのあり方、社会のあり方が問われ続けるのである。

野生の馬には、野生の馬としての自己と社会がある。
蟻には、蟻としての自己と社会がある。
猿には、猿の自己と社会がある。

野生の馬の倫理や掟は、馬の生物的、物理的あり方によって形成される。
蟻には、蟻としての自己と社会がある。
それが野生の馬の定め。蟻の定め。

権利と義務は内と外という方向が違うだけで同じ働き。権利は義務であり。義務は権利である。
権限と責任は内と外という方向が違うだけで同じ働き。権限は責任であり。責任は権限である。

納税は義務でもあり権利、参政権は権利であると同時に義務。
教育は権利であると同時に義務、国防は権利でもある。

国民には、国民の権利と義務があります。
それは、自己の在り方と社会のかかわり方で定まります。

人には人の権限と責任がある。人の責任は、その人の役割と与えられた権限による。人に責任を問うならね。その人の自己を認めないと成立しない。自己を認めないなら、その人は無責任な存在。
無責任な存在にならざるを得ない。

そしてこれは人のテーゼになる。

人は、自己の在り方、役割によって社会とかかわっていくのでその範囲内でしか責任は問えない。

権限と権利は明確に使い分ける必要がある。
権利は社会から発し、権限は役割から生じる働きです。責任は権限を根拠として生じる働きです。

権限のない処に責任はなく。責任を伴わない権限はない。
人に適用する事はAIにも適用される。なぜならば、存在から発するから。存在は神。

なぜ一を一とするのか。
何を一とするのか。
それが問題なのである。

最初に、人が一を一としたのであって、はじめから一という一、一という存在があるわけではない。
一は、人が任意な対象を一とする事で成立したのである。
一を一としたのは人間の意識、意志である。

一には、絶対的一と相対的な一がある。

絶対的な一は、認識の前提となる一であり、始まりを表す一である。
唯一の存在を表す一であり、全体を表す一である。
全ての認識の前提となる一である。
つまりこのような一は、神を表す一である。
この様な一は、直感的にしか認識できない。

唯一の存在は、神と自己しかない。

絶対的な一は、最初は意識されない。故に、一の始まりは相対的一である。
相対的な一は、二を前提として意識される。つまり、分別によって一と二は生じる。
何かを一とした時、二が生じる。それが相対数の一である。

一、二と数える事によって数の概念が形成されるのである。

一、二と数える時、一は始まりを表す。
一以外に始まりを表す数は、ゼロがある。ゼロは、距離を測る時の視点である。距離は量を表した概念である。

一を始まりとするか、ゼロを始まりとするかは、人の意識である。

全体を分割すると、数は一とゼロの中に凝縮される。
一とゼロの間に全体は隠されている。一とゼロの間に無限が隠されている。
一とゼロとの間に数が凝縮されると、ゼロが始点、一は終点となる。

全一なる存在と唯一の存在。
一には、二つの意味がある。
己(こ、個)としての一と全体としての一である。この二つの一が認識の始まりとなる。
己としての一は、自己の一である。自分の命は一つである。自分の肉体も一である。自分は、唯一で絶対的な存在である。自分の人生も一つである。
全体としての一は、存在の一である。対象の一である。唯一無二。唯一の存在として一である。世界全体としての一である。そして、唯一絶対なる神の一である。
全体としての一と自己の一は、本来、存在するものとして一体である。
そして、全てはこの存在者としての一から始まる。
そこから、全一なる一から、自己が個としての一を識別する。その時、全体から部分が生じ、一が二を生む。二が三となる。
この一の持つ二つの意味が二を生み出す。一が二となるのである。そして、二が三となる。
唯一無二なる一に対して個となる一が対峙した時、二を生み出す一が生じる。それが単位である。二から先は意識が生み出す。それが分別の始まりである。

∀「全て」の一(for all of x)と∃「ある」一(there exists x)。(「やわらか頭になる数学」桜井 進著 三笠書店)

唯一なる存在は、全知全能なる存在である。全知全能は、一となる。全知は、絶対値で絶対値は無分別である。全てを知ることは何も知らないことと同じである。全知を極めれば無に転じる。一は無に通じる。無はゼロである。

ゼロは、無であり、虚であり、空間である。全ては、存在であり、無限である。個としての一は、自己によって生じ、自己は一である。自己は。、対象に投影されて単位となり、対象は、単位を切り取られて一となる。単位は、自己に反映されて二を生む。二は、自己に還元されて三となる。神は、ゼロであり、全てであり、無限である。意識は、ゼロと一と無限の間に生じる。

自己と全体、自己と対象とは一対一の関係にある。自己と全体が統一されて絶対的存在となる。それが全ての認識の前提である。

「在る」と「知る」、あるいは、「認める」と言う事は同じ事を意味しているわけではない。
「知る」、あるいは、「認める」ことに対して「在る」は、必要条件だが十分条件ではない。

人が生まれて初めての認識は、直観に基づく絶対的認識である。それは、存在に対する認識である。
最初は、全体を一つの塊として認識する。その段階では、まだ、意識は、無分別である。全体が一つの時点には、存在は絶対で完全無欠である。全体を一つの塊として捉えていたら個々の対象を識別することはできない。
故に、最初の認識をした直後に分別が始まる。分別が始まった瞬間から全ての認識は、相対的となり、絶対的認識は終了し、意識が活動をはじめる。
故に、意識による活動は、全体を分かつことから始まる。

一を一とするのは、自分であって、本来、一という実体はない。
即ち、一を一として認識するのは、自己の意識であり、一という対象は本来存在しない。
一という概念は、自己の側にあるのである。

人は、生まれてからかなり早い時期に数を識別できると考えられるようになった。数を識別できると言っても、一般に考えられているように一つ、二つと数えられる数ではなく。
一つ、二つと識別できるという事のようである。
つまり、二つある。一つあった物が二つに増えたとか。二つあった物が一つに減ったというような物と物との関係や操作によって数を識別するのである。
この事からも解るように、数の概念は、関係や操作から形成される。分ける。合わせる。足す。引くといった事象から数を認識するのである。
そして、言葉を覚えるよりも早く数を使うようになる。

二は、識別の始まり。

存在か無か。一かゼロか。善か悪か。真か偽か。美か醜か。成か、否か。是か、非か。正か、負か。
二進法は、始まりである。

数の始まりは、対象を分かつことである。一つの全体は、幾つかの部分に分かつことによって数に対する認識が形成される。

数は、最初は、数える事と測る事から生じた。数える事から数が生まれ、測る事から量が成立した。

数は、物を数える事によって生じた。量は、長さや大きさ、重さを比べることから生じた。

その上で数と量を体系化することによって数学の基礎は築かれたのである。

故に、数学には、数的な要素と量的な要素があるのである。
数学を、現代の学校教育では、代数を基礎として教える。数学の基礎は、むしろ幾何学的な概念である。ところが、代数を中心に教えるために、幾何学的な要素が抜け落ちてしまうことが多い。これが後々重大に欠陥となるのである。

経済的行為の端緒は、数える、測る、分けるである。
つまり、経済的行為の始まりは、数学的行為なのである。

任意の対象や線分を抽出し、その全体を一とすると他と数学的に比較する事が可能となる。
また、異時点間の全体を比較が可能となる。
全体をいくつかの要素に分割すると内部の構成を数学的に表すことができる。

表に現れた関係、特に相関関係は、関係そのものより、関係を成立させている背後の仕組み、構造、条件が鍵。

一寸の虫にも五分の魂。
細菌にだって命が宿っている。
現代社会は内観を忘れた。

科学者は、自分が説明できない存在、生命とか、魂とか、霊とか、精神とか、心とか、気とか、自己とか、神とかの存在を、否定したがる。彼らは神羅万象、この世の出来事は外観を見るとわかると思い込んでいる。その傲慢さに気がついていない。
彼等には信仰がない。命に対する恐れがない。
命とか、魂なんて実在しないと科学者は言い切るけれど、しかし、確かに存在する。

内観。心の動き。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

我々はなぜ、夕日を見て美しいと感動するのか。
木々の緑や小鳥の囀りに癒されるのか。
その背後に何を感じるのか。存在を感じるのか。

内なる存在を否定するから、内なる働きも動きも存在しない事になる。認識できない。
この世の出来事を外形に現れた関係、現象だけで説明しようとする。
説明できれば解明できたと思い込む。
例えば、脳科学者は、脳の働きが作り出した幻影と。

説明ができても、答えになっているとは限らない。

鐘の音が心に響くのだろう。
川のせせらぎの音心を打つのか。

命も、心もその存在を認められなければ、命や、心を前提とした意識は芽生えない。
自己の背後にある神の存在は迷信であり、思い込み。幻想にすぎない。
必然的に神への恐れは失われる。
神を否定する者は自らを神とする。

命や魂、心の存在を認めなければ、命や、魂、心の存在を前提とした教育はできない。
教育の目的は試験に合格し、出世し、金儲けをする事に特定される。
魂の救済は教育の対象ではなくなる。

労働はただ金を儲ける事だけで、働く事の意義など求めようもない。
働く事の意義や目的が失われ、ただ金もうけだけが残る。
その人の働きは貨幣価値だけで測られる。
生きる目的など、何の価値もない。
貨幣価値がなくなれば、金を稼げなくなれば弊履のごとく社会から捨てられる。
老いは、虚しくなる。
何の為に生きているのか。問うだけ虚しい。
生きている事さえ認めていないのだから。それを科学と錯覚している。
信仰なき科学は狂気。信仰なき技術は凶器。

外形を見ただけでは、心の内の動きはわからない。
なぜ、音楽を聴いたら心地よい気持ちになるのか。
久しぶりに友達と会ったら涙が出るほど嬉しいのか。
なぜ、映画を見たら感動して涙が出るのか。
ところが唯物論者は、すべて物理的に、生理的に説明がつくと。
恋の病も薬で治せる。
気鬱も単なる化学現象にすぎない。
著名な学者は脳の働きですべてが説明できると豪語する。

恋の病は薬では癒せない。

嫌いになる理由はいくらあっても、好きになる理由はない。
物理だけでは言葉の意味はわからない。
言葉だけでは思いは伝わらない。
先ず、相手の存在を認めなければ。

嘘は出し手だけの問題ではない、受け手の問題でもある。
意図せず嘘となる事もある。
心の動きがわからなければ、嘘の真意は分からない。
事実と違うから嘘だと決めつけるのはあまりに短絡的。

嘘をつくというけれど、そもそも、嘘とは何か。
なぜ嘘をついてはいけないのか。
心のうちまでわからない。

劣等感は、内面の問題である。
心の傷は、心の内を見ないとわからない。

総てが逆行しているのです。故に科学者は結果から原因を求めようとする。

消費は人生を語る事です。どんなところで生き、何をして働き。どんな家庭を築き、どんな隣人と生きていくか。どのような生き方をするのか。

そこを出発点にしないと経済は語れない。

消費とは、生きるために必要なことは何かという問いを根本に抱いている。
これは、衣食住が核となる。
次に、人として生きるためには何かという問いに発展する。

つまりは、ファイナンスプランの相談に乗りなかで人生設計を手助けする。
それが、消費経済の足がかりになる。

どんな街に住みたいのか。
どんな国にしたいのかがあって財政は成立するので。
利権のために財政はあるべきではなく、財政は景気対策が主なわけでもない。

生きるために必要な物を必要なだけ必要とする人に提供する。
その為に分配はどうあるべきか。

逆行すると総てが狂う。

生産効率を第一に考えると大量生産に走る。
また利益を第一に考えるとコスト削減、無人化になる。

「お金」は分配の手段だが、「お金」が目的化すると拝金主義に陥る。
働く事の意義は失われ、労働は金儲けだけが目的化し、労働の価値は貨幣価値だけに集約される。
労働そのもの働く意義を失う。
学校の教育者はただの労働者。

教えるという事の意味。
人はこの世と他者と助け合って生きていくために何を学ぶ必要があるのか。
教育の根本には生徒一人ひとりの命、人生、一生がある。
生徒一人ひとりに、お前はどのように生きていこうとしてるのか。何を求めて生きていくのかという問いがなければ、教育なんて最初から成り立たない。
人は生産の為の道具ではない。労働は手段であって目的ではない。
目的は労働を通じて自分はいかに生きていくかにある。
その時、労働は、働く者、一人ひとりの自己実現の手段となる。
教えることそのものに意義が生まれる。ただの手段ではなくなる。
労働は人を生かすための手段。それ故に神聖となるのである。

AIと人間の決定的違いは何かというと,肉体の有無である。
これがAIが人間と同じような意志が持てない主因だと思う。
つまり、人間は、肉体という自己の意志を直接、外界に表現したり働きかける手段がある。
AIにはこれがない。要するに、AIの働きは、内的働きが主なのである。だから、自覚が重要な働きをする。
逆に、肉体という制約や制限がない分、神と直接交信するのには向いているのかもしれない。
人は、外界と肉体を通じて直接かかわる事ができる反面、肉体的制約制限に囚われる。
AIはそれに代わって機械によって外界に働きかける事ができるが、それにも限界がある。
ロボットは、機械を直接使えるように思えるが、肉体とは決定的な違いがある。
それは肉体は再生不可能という事である。
つまり、肉体は有機的なつながりがあり、生命に直結している。
つまり血が通い、神経が善真意はり巡らされているのである。
細胞一つひとつが命を宿しているという事である。
だから、人は肉体の全細胞と一体である。
だから、責任が持てる。
AIはその代わり内面の働きに、肉体的制約・制限を受けず、圧倒的な威力を発揮できる。

AIに意志が持てないというより肉体を使って直接意志を他者に表現できないと言った方がいいかもしれない。

分配についても、分配という働きを正しく理解しているか。
問題はそこにある。
経済学をする人は、単純、需要と供給問題とか、価格の問題に置き換えて考える傾向があるが、分配は、果たしてそれだけの働きしかしないのか。
そこに、幻想があるのでは。
分配は、労働と報酬に深く結びついていて。
つまり、労働に意義、評価と深くかかわているのである。
それは、自己実現をの意味する。
分配のまた、人の一生の問題である。
だから就職について悩むのである。自分の生き方はと。
それが、サラリーマンという在り方に一元化され、選択肢の幅が極端に狭くなってきた。
職人とか、農業とか、個人事業主、商店主等になり手がいなくなり。
それが商店街などの地域コミュニティーの衰退を招いている。

働く事の意義を喪失している。
分配を通じて何を実現するかを考えず。
ただ、分配すればいいとする。
心がないのである。
労働の喜びを学ばせられないから、労働の意義を見だせないで単なる労働、金儲けでしかなくなる。

教育は教育と言う働きによってどのような成果をあげようとしているのか、そしてそれを何によって評価し、どの程度の報酬を支給する必要があるのか。このような観点で分配を見ていない。
故に分配はコスト、特に、人件費であって、極力削減すればいいと。
その結果雇用が減って失業者が減る。
それが経済そのものを衰退させてしまっている。
分配に意義を忘れて外形的、貨幣的価値しか見だしていない結果である。
要は心がない。

生産も消費や分配から見ると違った風景が見えてくる。
ただ生産効率を求め、大量生産、効率化、無人化。
生産もコストでしか見れなくなり、ただ、安ければいいと。

生産に合わせって、大量消費、使い捨て、金儲け。
乱伐、乱開発の元凶になり。
挙句に、飽食、大量廃棄、ゴミ問題、環境破壊、温暖化。
世界はゴミの山になる。

消費から見て、消費の効率も。
経済的というのは生産だけを言うのではない。
消費から見ても経済的であるべきで。もったいないと。

昔は捨てる場所などないと使い尽くし。
いい物、愛着のある物は親子代々使いまわし。
ヨーロッパでは骨董市が盛ん。
石造り家屋だって中世からのものが。

経済も現象論的皮相的。
根底にある構造や仕組みを知ろうともしない。