生命が濃縮され、凝縮され、夾雑物が、削ぎ落とされ、純なる魂だけが残された後。
人は、やっと真実に見えてくるのだと。

この世には、神が与えた部分と、人間が作り出した部分があるが。
人間が作り出したと言っても、所詮、元をたどれば、神が与えたもの。
発見、発明でしかなく。
無から、生み出したわけではない。
根源は不可思議。

純なる魂以外、何ものもなく。
地位だの、名誉だの、財産だの、何もなく。

あるのは、自分が、生きていると言う事実でしかない。
それ以外何もない。

執着心を捨て、虚飾も捨て、純なる魂に立ち返れば。己の存在以外何もない。
何もない。地位も、栄誉も、栄華も、権力も、何もかもが空しく。虚しい。

それども、人は、捨てきれないものがある。
ふるさとへの郷愁、友情、母への思い、愛する人の記憶。
それをなくしたら、自身へのアイデンティティなんて意味はない。
棄てられない事にこそ、己の本源、本性が隠されてる。

例え、自分が死んだ時、涙を流す人が、誰もいなくても。
誰からも、振り返られもせず。
忘れ去られたとしても。
それが、どうしたというのだ。

自分が生きているのは確かなんだし。
生きてきた事も。
否定しようのない事実。現実なんだ。
だから、自分の本性を見極めておきたい。

それは、生きてきた証だから。

人は、最後には、地位だって、財産だって、名前も捨てて、神の前に立たされるのだから。
自分を極めるしかない。

この世には、自分の力では、どうしようもない部分と、人が作り出した部分があり。
人が作り出すと言ったところで、自ずと限界がある。

所詮、人は神を越えられはしない。

どんな、賢人も、聖人も、偉人も、結局、誰も、人間の愚かさを、正す事が、できなかったのだし。
今の、争いの果に、人類が破局を迎えても。
我々は、生かされてきた事は事実なのだから。

どんな偉大な、聖人も、哲学者も、賢人も、死んでしまえば同じよ。
どれ程、強力な力を誇示する権力者、独裁者も、死んでしまえば無力。
どれほど多くの富を得ても、死んでしまえば、すべてを失うとしたら。

悪行も、善行も、死によって帳消しになるなら。
善とか悪とかなんて意味ないじゃあないか。

人の目なんて気にしないで、やりたいことやってさ。
面白可笑しく生きたが勝ち。

だいたい、世の中最初から不公平にできているんだから。
金持ちで名門の家に生まれ。
頭も良くて、美人で、性格もいいなんて人もいれば。
貧乏で最下層の家に生まれ、。
ブサイクで頭も悪くて、力もないなんて人もいる。

だからといって、いい家に生まれた、お嬢さんに施しを受けても、ありがたくも、なんともない。
そう言ってしまったらお終い。

自分に与えられたものを大事にしてさ。
他人にはなれないのだから。

それでも、世のため、人の為などと言うと、偽善のなんの。
真面目で、誠実な人がいても、あらを探して、そら見た事か、それが現実で自然なんだと。
この世の中は、薄汚くて、醜いとそう納得させたくて。

他人を見下し。
分かった風なことを言うのが現代のインテリだと思い込み。
真面目に生きるなんて愚かなことなんて。

なぜ、そんな事が言えるのか。

現実を見ろ。現実をと。
現実は醜く、人は無力だと。
言い張るけれど。

そうかな。
例え、自分の行いが死によって帳消しされても。
そんなこと関係ないさ。
今の自分のためにも、間違ったことはしたくないし。
何より、自分らしくない生き方はしたくない。
大切なのは、今の自分であって、自分を偽ってまで、汚いことはしたくない。

結局、誰のために、なんの為に生きてきたのか、自問自答せざるを得なくなる。
問わざるをえないとしたら、最初から、世の為、人の為というのは偽善ではないはずだ。

それは、死後の世界が、どうのこうのという事とは、かかわりない。

善悪も、貴賤も、貧富も人の世の事、神が生み出したわけでもなく。
絶対は、神の側にあり、善悪も、貴賤も、貧富も、人の世の事。
存在は、絶対であり、増大的なのは、認識の問題。

芯となる部分。
それは、純粋なる存在でしかなく。
だから、存在は絶対なので。
絶対なるがゆえに無分別。
無分別なるが故に。
不可知、不可思議。
存在そのものは、善も悪も超越している。
存在する物をどう捉えるかは、人間の勝手だが、絶対ではなく相対的なので。

神を絶対とし、超越的存在だとするなら。

神の前では、共産主義者でもなく、キリスト教者でもなく、イスラム教徒でもなく、仏教徒でも、ユダヤ教徒でも、ヒンズー教徒でもなく、独裁者でもなく、ホームレスでも、大僧正でもなく、農民でもなく、犯罪者でもなく、裁判官でもなく、経営者でもなく、ただ一人の人間として対峙するしかなく。

人は、生まれる以前の記憶もなく、死後の世界も知る術もないとしたら。
存在の根源は不可知、闇である。
​存在の根源が闇なら。

それでなくとも、生の行き着くところにある死が闇で、生も死も、純粋に個人的な事柄とするのならば。
いつかは、一人ひとりが底なしの闇と対峙せざるをえないことを意味するのだろう。
その時、私は、神の方を真直ぐ見て、怯えもせず、言い訳も、抗いも、たじろぎもせず、無言を通すことができるであろうかと。

人間がどうなろうと、神には関わりのない事なので。
なぜなら、神は、人間を必要としているわけでなく。
神を必要としているのは、人間なので。
神のことを信じようと信じまいと、神にはどうでもいい事。
だから、髪を信じるかどうかなんて、人間の側の問題。
そのへんを錯覚して、信仰がどうたらこうたら。

信仰によって救われるのは、人間なので。
信仰によって神が救われるわけではなく。
なぜなら、神は、神自身の力で存在できるけど。
人間は自分自身の力だけでは、存在できないのだから。

だから、人間は愚かだと。
人間は神を超えられない。

滅びたければ、滅びればよい。
生き残りたければ、働きなさい。
それが神の意志だ。

この世に最初から、美醜、善悪、真偽の別はない。
頭だから貴く、心臓だから清く、肛門だから汚い、性器だから卑しいなんての人間の思い込み。
真偽、善悪、美醜に老若、男女、新旧の別はない。
それは人間の意識が生み出したものだ。

なぜなら、ユダヤ教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も、神に向かってなぜと問うているし。
神に祈り、救いを求めてもる。自分の信じる神に。
矛盾しているって。
この世は最初から矛盾している。

この世が矛盾しているのではなく。己の意識が矛盾しているので。
人間が知りうること、達しうることは、不完全で、未完成でしかないのに。
神は、常に完全で、完成されている。

日本人は祈りを捧げる神すらいないというのか。

何を信じろと言うのか。
何を信じたらいいのか。

今、世界で起こっている事は、日本人の考える善良さなど通用するほど、生易しくはない。
生々しい、憎しみと残忍、残虐。
とてもとても、許しあえはしない。

だとしたらその現実を直視し、その現実を通して、今の自分を知るしかない。
己の無力さを知るがいい。
己の無力さを知ったうえで、それでもなお、今、自分に何ができるかを問うがいい。
何をすべきか、懊悩し。
身悶え、考え、行動するのだ。
さもなくば、自分が許せなくなる。

何が、自分とって正しく。何を、信じるのか。
己の内面の魂に忠実になるしか生きられはしない。

人間の歴史なんて宇宙や地球の歴史から見れば一瞬の輝きでしかない。
それでも、人生は、この瞬間に普遍的な時を刻んでいる。
それは、自分が、今、生きて人を愛し、憎んで、また信じようとしている、その日常の、その日常を突き詰めたところにこそある真実。
誰を愛し、何を信じたのか。

例え、人類が滅亡しても悠久の時間の流れの中にあってちっぽけな出来事に過ぎない。
無窮の真実は自分の内にしかなく。

己は、己を極めるしかない。
自分を信じて、さもなくば救われはしまい。

なぜなら、いずれは、
名もなき一人の人間として神と対峙せざるを得なくなるから。

その時、名声も、権力も、富も、無力なのだから。
一夜の夢よ。

善も悪も、突き詰めれば、自分の本質でしかなく。
それに従って生きていくしかない。
自分が信じるままに。

生命が濃縮され、凝縮され、夾雑物が、削ぎ落とされ、純なる魂だけが残された後、残るのは、自分の純なる魂でしかないのだから。