「助けてくれない、やってくれない」とぼやくと。
「お前指示したか」と聞かれた。
「指示しないと何もしないよ。
集まれと指示しなければ誰も集まらないだろ。
片付けなさいと指示しなければ、子供は片付けないし。
やめなさいと指示しないと子供はいつまでもやめない。」
叱っているのではなくて指示しているの、指示と叱るとは違う。

審判がストライク、アウト、退場を命じるのは、指示であってパワハラではない。
監督や、観客、捕手が、ストライク、アウトを強要するのは、パワハラ。
出すべき人、出すべき権限がある人が指示を出すのは、正当な行為であって、パワハラではない。
逆に出さないと、試合は進行しない。
だから、「お前、ちゃんと指示したか」と確認された。
指示してはならないではなく、指示しなければならないと躾けられた。
学校では逆を教える。指示してはならない。強要だからと。
強制のない社会はない。強制しなければ、社会は成り立たないからだ。

権限を与えられたら速やかに指示を出せ。さもないと、権限は発効せず、やがって失効する。
権限を与えられたら、「集まれ」とか、「注目」といった誰にでもできてわかる、簡単な指示をとりあえず出せと教えられた。

指示決められた事、やるべきことを、指示する権限がある者が、命ずる事を言う。
叱るというのはしてはならないことをした時、注意する事。
親が、子供を叱らなければ、子供は社会生活も自分の身は守れくなる。
今の学校は、指示することも、叱ることも悪い事のようにする込む。これは、革命思想である。
その証拠に彼らの思想的背景である社会主義国では強制、指示は悪ではない。
自由主義国でも悪ではない。悪とするのは過激な無政府主義者だけだ。革命家が悪とするのは、無秩序な状態にするためだ。

事前に承認がなければ組織では、指示は出せない。
今日のバス旅行は私が責任を持つので、私の指示従ってくださいと最初に宣言すれば、集合場所は、どこで、何時までに集まってくださいと指示できる。
ちなみに、お願いは指示にはならない。
最終的判断、責任が相手に委ねられるから。
指示は明確に選択の余地がないように出さなければならない。
最初に宣言しなければ、指示はできない。
試合が始まってからチームは組めない。
当日のチームは、事前に編成し、それぞれの役割をリーダーは指示しておく必要がある。
事前にチームを編成して置かなければ当日、指示に従うこと、つまり、助けを期待できない。
それは、相手の好意を期待しているので。願望に過ぎない。
願望では組織は動かないし、第一、責任を問えない。
問えば、パワハラになる。
事前の承認なしに指示は出せないから。

指示決められた事、やるべきことを、指示する権限がある者が、命ずる事を言う。
叱るというのはしてはならないことをした時、注意する事。
親が、子供を叱らなければ、子供は社会生活も自分の身は守れくなる。
今の学校は、指示することも、叱ることも悪い事のようにする込む。これは、革命思想である。
その証拠に彼らの思想的背景である社会主義国では強制、指示は悪ではない。
自由主義国でも悪ではない。悪とするのは過激な無政府主義者だけだ。革命家が悪とするのは、無秩序な状態にするためだ。

権限がない人、ない事を強要するとパワハラになる。
事前に了解、承認があれば別である。

問題は正しい指示の出し方を教えていない、教わっていない事が問題なので。
私は生まれてから親からも支持された事がないなんて言う子が増えsている。
指示しないで怒れば、子は従わない。躾けられない。

今度、引っ越しするから、手伝って言われて、いいですよと承諾すればと実する事はパワハラではない。
ただ、明日手伝いに恋は、パワハラになりうるから注意が必要。
スキーバスの企画任されたんだけど、一緒にやらないかと誘い、いいですよと了解したなら、当日指示しても違法ではない。
ただ、最初に了解も得ず、お前やれというのは乱暴。
だから、最初に遠慮していると、結果的に乱暴になる事が多い。
チーム作りは真っ先にやり、誰がリーダー、責任者かを決める。

指示されてばかりいると、指示されるのが嫌になります、挙句、指示そのものを嫌がるようになる。
自分が嫌なことは他人にしてはならないという教えられていたこともあり。
指示が悪いと、指示ができなくなる。

他人から指図されるのは嫌だなんて駄々こねてるのは、ガキだぜ。
大人なら、指示ざれた事の意味を正しく理解し、責任をもってやり遂げる事を考えるけれどな。

結論が出たら速やかに指示すべきものが指示する。
指示しないと出した結論が無効になるだけでなく、信用も無くなり後に響く。

注意する人がいなければ、組織どころか、集団はまとまらない。
注意するのは、気がついた人が、その場で注意するのが鉄則。
なぜなら、その場で注意しないと、改まらないから。
だから、注意は気がついた人がその場で注意する。
気がついていながら注意しないと、「気がつかなかったか」と聞かれ。
気がついていながら注意しないと叱られた。
これは、スキンダイビングとか、登山といった危険を伴うインストラクターの鉄則。
何故なら、危険が伴うから。
話をきていない人がいたら、その場で注意する。
「話を聞いてください」と。

それができないとインストラクター失格。

大学の仲間に、野球部のキャップテンをしていた奴がいたが、「ダラダラしている奴がいたらボールをぶつけた。何故なら、ケガするから」と。

でも注意するのは結構勇気がいる。
それで注意できないのは臆病者と。
臆病者と言われたくないから、勇気を出して注意をする。

最近は男子より女子の方が注する。それだけ男子が臆病になった証拠か。

叱るのと怒るのとは違う。
叱るには叱るなりの理由がある。
叱るのは注意するのと同じ。

相手を思っていなければ叱れない。
叱れない者は怒る。
叱れないから怒る。
怒るというのは感情である。
怒っている者は、唇を震わせ、顔を真っ赤にしているからすぐにわかる。

叱っている人は冷静だ。
冷静だから、叱られている者も話を聞く。
怒りだしたら、手に負えない。
だから怒られれている者の多くは黙って下を向く。

叱られている時によく言われた。
「目を見ろ」と。
「叱っているんだから俺の目を見ろ」と。
本当に叱る時は真剣だ。
対峙し、対決している。

だから厳しい。
厳しいのは当たり前。
声も大きくなる。
人目もはばからない。

相手の間違いを正さなければならないと覚悟しているから。

自分の子だから叱れると。
他人の子は叱れない。怖いからと。

それが叱るという事。

叱られた人を慰める人はいても。
叱った人を慰める人はいない。
でも叱った人間の方が傷ついている。

叱るというのは大変な事。

パワハラなんて言ったて所詮信頼関係。
教育指導は、パワハラと紙一重。
逆パワハラだってある。

パワハラと言われることを恐れていたら、部下指導はできない。

業務に関係ない事を強要する事をパワハラというので。
特にモラルに反する事を強要すれば、間違いなくパワハラ。

でも引っ越しの手伝いや、歓送迎会と一見、私的な集まりこそ、教育や勉強、コミュニケーションをとるチャンスであることも確か。
それは仕事かと聞かれると微妙なんだけど。

公式に認められた行事、例えば、歓送迎会か。
有志でやるのかで違ってくる。

正式に指示が出ていれば引越しの手伝いだって仕事。無論有給である。
しかし、正式な指示でないからこそいいこともある。
同じ稼ぐなら、私的にやった方が儲け(学び取る事)も多い。

ただそうなるとパワハラというのが難しくなる。
大将の側は強要していないと言っても、相手が強要されたと言えば、思えばそれまである。

土台教育は、いじめと言われればそれまで。
叱るのだって。注意するのだって、相手が嫌がる事をするから効果があるので。
だから、注意したり、叱る方も怖い。

いつ立ち向かってくるか、ぶん殴られるかわかっていない。

いつまでも、奴働きさせているなよと親父や先輩から教えられてきた。

奴というのは、使いぱっしり、俗に言うパシリである。
いつまでも使いぱっしりさせておくと自分で始末がつけられなくなるよ。

パシリは、パシリ。
そりゃ言われた事はやるさ、でも言われた事しかできないし。
言わなきゃ何もできない。
言われないでもやれなければ勤まらない年齢になっても、自分から何かできるかなんて考えられなくなる。

使いぱっしりが長いと、使いぱっしりばかりしていると使いぱっしりの目でしか、物事が見えなくなる。

使い走りの目。
補佐役の目。
参謀(企画)の目。
管理者の目。
リーダーの目。
経営者の目。

役割によってみる目は変わってくる。

野球で言えば、ボール拾いの目、メッセンジャーボーイの目、投手の目、捕手の目、打者の目、走者の目、コーチの目、監督の目、マネージャの目、オーナーの目。
小学校のチームの監督でも監督の目で見ている。

成長する人は、ボール拾いをしている時から選手の目を持ち。
選手の時からコーチの目で見る。
コーチになったら監督の目を持つ。

だから、任せられる。

一生ボール拾いで終わりたければ、ボール拾いの目でいいけど。その代わり文句は言うなよと。

一生、指示される側で終わるしかない。
指示する側に回れない。
何故なら指示する事ができないから。

親父たちによく言われたのは、人を使っては悪いなんて、思う事はないよ。
むしろ使わない方が悪い。
使うというのは、相手を認めているからで。
相手は役に立ちたい、使ってほしいと思っているんだから。
使わなければ役に立ちようがないし、活躍の場、活躍のチャンスも与えてもらえなかったという事になる。
だから、使うのが悪いのではなくて。使わないのが悪い。
野球の試合で、大変だろう、疲れるだろうと起用しないようなもので。
選手は、試合に出てはじめて評価されるのだから。