最初の決定は、担当を決める事。
今、何が問題かを確認しながら、一歩いっぽ、足を進めるように、一段いちだん、階段を昇るようにしていく。
その為に担当を決め責任を明確にする。
なぜ、担当を真っ先に決めるかと言うと、それが、組織化の手始めだから。

自分以外の担当を決めないと、どこまでいっても一人仕事になる。
担当を決める事で、自分以外の人との共同作業にする。
それがチームワークの手始め。

組織、チームは最初から出来上がっているわけではなく。
組織は、人と人との関りと行動によって形成されていく。
故に、担当を最初に決める必要がある。
担当とのやり取りのなかから仕事を決めていく。
その人と仕事との結びつきによってチーム。組織は形成される。

人は、結果しか見ない。
結果の背後には、結果に至る過程がある。
だから、前提事実が重要となるので。
なぜ、その結果に至ったか、それが問題となる。
仕事で重要なのは過程である。
なぜなら、仕事は、順序く組み立てられた作業で構成されているからである。
仕事を構成する一つひとつの作業全てに担当がいる。

リーダーも、マネージャーも最初に担当分けができなければならない。
担当が決められなければ、一人仕事しかできない。
担当を決めるということは、任せることを意味するので、担当を決められないというのは、信頼して任せることができないことを意味するから。

負ければいいじゃあないか。
勝とうとするから、任せることも分担することもできないんだ。
どのみち、若い連中にはかなわないんだから。
だいたい俺達の仕事は、若手を育てることや、隠れた才能を引き出すことなのだし。

負けることを知らなければリーダーにはなれない。リーダーは、代表なのだから。

俺は、最初から、若い連中に勝とうなんて思っていない。
勝てるわけないし。
大体、リーダーは、いかに、自分より優秀なメンバーを集めるかが肝心なので。
どれくらい、自分より優秀なメンバーが居るかが自慢になる。
なぜなら、リーダーの役割は、人を育てる事、それこそ、指導力だから。
リーダーに求められるのは、人の隠れた才能を見出す目と自分が責任を負う覚悟だ。

自分が何を求められているかを考えれば、自分が何をすべきか、つまり、仕事がわかる。
何が求められるかは、役割からくるので、他人の思惑ではない。
監督には、監督の役割があり、コーチには、コーチ、投手には投手の役割がある。

ボールを投げなければ、試合は始まらない。
ボールを投げる事は、簡単だよ。
その簡単なことができなければ、試合は、始まらない。
だから、深刻なんだ。
監督が、先発を決めなければ、試合は、始まらない。
先発を決める事は、簡単だよ。
ところがいざとなったら決められない人が結構いる。
決めらずに、何とか先延ばしにしようとしたり、逃げ出そうとする。
でも、決めなければ試合は始まらない。
やろうと思えば、簡単にできる。
しかし、その簡単な事がなぜかできなくなる。

全員が守備位置につかなければ試合は始まらない。
打順を決めなければ試合は始まらない。
打席に立たなければ、試合は始まらない。
審判がコールしなければ試合は始まらない。
一つひとつは、簡単で、やればできる。
ところが、迷いだすと、その簡単なことが、できなくなる。
決める事には順番がある。
その順番が狂ったり、わからなくなると決められなくなる。
決められない理由は当人しかわからない。
そして、手際よく、手順よく決められないと試合は始まらない。

自動車の運転も意識しなければ滑らかに決断できる。
意識しだすとギクシャクしてしまう。
組織もすくみだから、決めるべき時に、決めるべき事を、決めるべきこと決めないと、滑らかに、よどみなく仕事は流れなくなる。
仕事は一連の作業、連鎖した作業、しかも、並行作業、順序の決まった作業の塊。一つでもひっかてしまうと、正常に作動しなけなる。

とにかく担当を決めて、最初にセットアップする。

まず、やるべき事、すなわち、指示されたこと、決められたことを書き出し、項目事に、担当者を決める。
次に、個々の担当者と打ち合わせ、どこから着手するから決めるのだけど、その前に、思いつく範囲でいいから、関係部署、関係者を書き出す。

実際に作業をするのは、担当者だから、担当を決めないと、作業が逃げ場を失って、這い上がくるからね。下へ、下へ。現場に近づいていくように抑え込まないと、仕事が、吹き上がってくる。
いつまでたっても、仕事にならないよ。
下手をすると、組織が吹き飛んでしまう。


担当を置く事で、仕事を相互に確認し合う事も可能になるし、相互牽制も聞くようになる。
戸締りの確認のように、一人だと一度不安に陥ると確認のしようがなくなる。
だから、確認は一人でするな。一人では確認ならないと注意された。
また、記憶も然り。
ただ、確認も、記憶も、もたれ合うと逆に危険になる。
だから、一人ひとりが責任を持って確認するし記録する。
それで相互牽制が効くようになる。
だから、担当を決めるのは組織の初歩であり、基本中の基本。

以前は、「担当決めたか」とか。
「担当を決めてけれないと誰と話したら(打ち合わせた)らいいかわからないので困ります。」とか。
「担当をハッキリさせてください」とか。
「誰が担当してるんだ」とか。
「担当を呼べ」とか。
「何を担当しているの」とか。
「担当を決めないと仕事にならないぞ。」とか。
「担当を決めないと、始まらないよ。」とか。
「担当を決めてない。無責任な事をするな。」とか。
普通に聞かれたから、担当を決める事の意味を、みんな自然に理解していたけれど。
今は、担当を決めないで仕事をする。或いは、できると言う思い込み。
これは思い込みで、実際は担当が決まっていないと組織的な仕事はできないのだけど。
例えば、現場の配送とか、営業、在庫管理、事務処理、教育など担当を決めないで仕事が回らないはずだから。
実質的に誰が担当しているかを支店長が把握していないと、支店長は何も管理できず、していない。
そうなると、本社も誰に問い合わせしていいかわからないから、指示、命令、報告が宙ぶらりんになる。
また、担当以外の人間が侵入、介入しても防げない。
何せ、支店長が掌握出来ないのだから。
支店長が誰に聞いたらいいかわからない状態では、当然、本社の方針なんて徹底の仕様がない。
また、支店長の意見だけでは、実体は理解できない。
担当がハッキリしていれば、支店長だけでなく、担当からも意見や情報を入手できる。
そうしないと、何もかもが支店長に集中してしまう。
支店長一人に聞いても実態は伝わらないし、本社の真意も伝わらない。
支店長と担当が、連携するから、仕事は成り立っているので。
だから、何事にも担当を決めるので。
担当を決める事で、仕事の筋が通る。

担当によって仕事の筋、指示・命令系統の筋も違ってくる。
面白い処である。

何で、担当者から決めるのかというと。
組織というのは、多分に、現場合わせの要素が高いから。
つまり、同じ仕事をやるにせよ。
その場の陣容顔ぶれ集まった人間の性格や能力構成人数などで、まったく違った仕事になるので。基礎的な作業が同じだとしても、先ず陣立てから入るのが常道だから。

先ず顔ぶれを見る。
中に、有能な企画屋がいれば、その人中心に仕事組み立てるし、職人がいれば職人を、事務方がいれば事務方をと。また、ベテランが揃っていれば、ベテランを中核に据え、若い剛力多ければ、突貫工事も考えると言う具合。
ベテランで構成されたチームと新人のチームでは最初にやる事からして違う。
顔ぶれによって仕事の組み立てが変わってくる。
組織なんて、粘土細工みたいなもので、決まった形はなく。
人と物と金次第でいかようにも組み立てられる。
二十人いれば、二十人の仕事になるし。十人いれば、十人。
人が多ければいいと言うわけではなく。
少数精鋭の方が効率もよく、組織の力を最大限に発揮できることもある。
だから、まず人なので、これが組織の鉄則でもある。まず人を見ろである。
人つまり担当を決めてから仕事を割り振っていくのである。

選手は、黙っていても、自分で守備位置を決め守備につくわけではないからな。
監督が、守備位置を決め、選手に、指示するからで。
前回、守備は決めているからでも。
選手が話し合ってでも。
どこかのおじさんが来て決めるわけでも。
母さんが決めるわけでもなく。
監督が決めるんだからな。
支店、部門の監督は誰か。
配属先は決められていても、何を担当するかは、現場で決め、改めて指揮する。

担当させる事の意味をわかっている人がいなくなり、担当が不明確になると、たちまち、現場は混乱に陥るのだけれど。
担当を決めると言う極めて初歩的の事が原因だと気がつかず。
こういう人間は、担当を決めると言うこと自体を認めていないか、馬鹿にしている、簡単に考えているから。そんな簡単な事で仕事が回っていないなんて夢にも思わない。
だからいつまでたっても仕事にならない。

誰が担当してるのと聞いて応えられなければ、担当を明確にしてないんだよ。
聞いてごらん、誰が担当しているんですかと。
担当がハッキリしなければ、仕事の話は詰められない。
プロジェクトのどこが悪いか、担当を決めてないだろ。
お前の担当も明確でなかっただろ。
だから、なんとなく担当していただけで、釈然としないだろと。
それでは、仕事の詰めはできないし、自分の考えを実務には伝えられない。

簡単な事ですよ、担当を決めるなんて。
でもできない。できなくせに侮る。
できないから侮る。

我々がよく注意されたのは、担当者ばかりやらされてきたもの担当者時代が長い者は担当を決められなくなると。団塊の世代が人口が多く。次の世代は、担当者時代が長かった。
その為、その危惧が現実になっている。

滑らかに意思決定ができないと心身に過重なストレスがかかり、気分が悪くなる。
これは、組織も同じ。生活のリズムが乱れる。

担当を決めたからと言ってすぐに仕事になるわけではない。
だから、実際に担当に何をさせるかは打ち合わせて決める。
そこからチームワークが始まる。
最初から組織は完成されているわけではない。
担当と打ち合わせてどんチームするかデザイン、設計する。
どんなチームにするか、仕事の段取りは、担当によって、全然違ってくる。
まず、担当がどれくらい知っていて、何ができるかを確認する必要がある。
オール・オア・ナッシングではない。

任せたから、勝手にやれというわけにいかないし、まかせられなんだから何をやってもいいというわけでもない。

担当を決められない、責任者、マネージャーは、選手の守備位置を決められない監督と同じで野球以前の問題、無能と言われても仕方ない。

掃除の日を思い浮かべればわかる。
静清支店とサポートセンターは合同で、支店長、あるいは、支店長の代理から、エリア毎に班分けをし、各班にリーダーを指名し、リーダーは各人の担当を指示する。
一度、筋道を通しておけば、後は、その筋書きがわかっている者は代行ができるようになる。
ただ、最初の段取りがわかっているものがいなくなると新しい筋書きがかけなくなる。

片付けにしても、運動会にしても、イベントにしても、全員が何らかの仕事を担当する。
みんな、自分が何をしたらいいのか、その場を仕切る人間の指示を待つ。
最初の指示は誰が何を受け持つか、担当を決める事で。
全員に何らかの担当を受け持たせる必要がある。
それが、リーダー最初の仕事。
その場を仕切ると言うのは実施責任者だからね。

その場を仕切る者は、やるべき事、作業、仕事をざっと洗い出し、担当を決めて指示していく。
速やかに担当を決めないと最初から仕事によどみが生じる。
人を遊ばせるな、何でもいいから仕事をさせろ。
担当が、決まってない人間はかえって邪魔。障害になるし。不満を持つ。
仕事がないのが不満なので、指示される事が不満なのではない。
指示されて不満を持つ奴は最初からやる気がない。仕事の障害になる。

監督には、監督が決める事があり。コーチには、コーチが決めることがあり。
マネージャーには、マネージャーが決めることがあり。
投手には投手の決めることがあり。
捕手には捕手が決める事がある。
監督がすべてを決めているわけではない。
どのボールを打つかは打者が決めるのは、打者だ。
ホームランを打たれたのは監督や捕手の性に投手がするのはお門違い。
だからと言って監督が決めたことと違うことをコーチが選手に伝えたら、チームの統制は取れない、

我々の仕事はボールが見えないけれど仕事の基本は、同じ。

どのボールを打つかは、打者が自分で決める。
どのボールを投げるかは投手が自分で決める。
誰を先発させるかは監督が自分で決める。
最後は自分が決める。

何が問題かを正しく見極める。

その為には、事実と意見と切り分ける必要がある。
例えば、速く場所を決めなければいけない。これは意見。
三日後までに場所を決めないと予約がとれないは事実。

次に、今何が問題なのかを判別する。
それは解決すべき問題かどうかによる。
地震で新幹線が止まったとして、それは解決すべき問題があるか。
新幹線に乗る予定があれば問題だが、新幹線に乗る予定はない場合は問題にならない。
無論、新幹線でくるお客様がいる場合は、問題である。

この様に、先ず事実を正しく認識したうえで、今何が問題なのかを見極める。
要するに今解決すべき事は何かが、問題の鍵である。

そして、その時の問題を解決する為に必要な情報だけに絞り込んでいく。
特ての日にちまで帰宅しなければならないのなら、帰宅する為に必要な情報だけの照準を合わせ絞り込んでいく。不必要な情報は削除する。
そして、解決すべき点に集中させていく。

頻繁に電話がかかってくる事は解決すべき事か。
解決しなくてよければ、問題にはならない。

事実は事実、意見は、意見。
事実は、人が違っても変わらないが、意見は、人によって違う
まず、事実と意見をより分ける。

背が高い。これは事実。(客観的事実。)
それがいい。それが悪い。これは意見。人や立場によって違う。(主観的判断)
背が低い。これは事実。(客観的事実。)
それがいい。それが悪い。これは意見。人や立場によって違う。(主観的判断)

意見を述べる際は、根拠となる事実(証拠)を明らかにする必要がある。
あいつは、計画性がないというのはどのような事実に基づいているのか。

事実と意見が混在している場合がある。
「もう、三年も。」と、「まだ三年しか。」では、評価が正反対である。

「あいつは、時間をかける。」
「それが悪い。」という人も、いれば「それがいい。」という人がいる。
時間を掛けると言うのが事実なら。いいか、悪いかは意見
「あの人は、率直な意見を言う。」というのが事実なら、長所なのか、欠点なのかは意見
或いは、好きか嫌いかは意見

意見は、一人ひとり違う。評価も。
意見には、自分の価値観嗜好が入ってくる。要するにセンスの問題である。

最初から、その人の考え方や基準が入ると決めつけになりがちである。
故に、最初は事実だけを取り上げる。
その上で、一人ひとりの意見を求める。

客観的事実なら、複数の人間で検討できる。
最初に主観的価値観が入り込むと感情的になりやい。
妥協点も見出しにくくなる。

問題は、事実に基づく必要がある。
その事実も、偏向や歪曲によって歪められる。

基本的に得たいのは具体的な方策なのである。
先ず、事実に基づくべきなのである。

ただ、最終的には、一人ひとりの意見を聞いておく必要がある。
なぜなら、最終的問題は、一人ひとり、自分の問題としなければならないからである。

自分に問題がなくても、結果に問題があることもある。
自分は、ミスなく、完璧にやり遂げて悪い結果が出る事がある。
問題は、自分の側になくても。問題となる事がある。
投手は抑えているのに、内野のエラーで負ける事がある。
しかし、負けは負けである。
解決しなければならないには、自分以外の事であることも多い。
それは、リスク、不確実性の問題である。
その場合、自分は、誰に対し、何をすべきか。
また、どう予測し備えるか
そこが、問題である。

自分の問題と、私的問題は違う。
私的問題は、自分の問題に含まれるが、自分の問題は。自分が解決しなければならない問題で。
私的問題は、個人的問題。
自分の問題は、自分が解決しなければならない事。
自分の問題を他人事にとらえている限り、自分で解決する事はできない。
私的問題でも、自分の問題としてとらえないと、他人事になってしまう。

体調が悪いというだけなら私的な問題。
体調が悪くて仕事に影響するというのは自分の問題。

だから、最後は自分の問題。
自分の問題にする。
そうは言っても、自分では解決できない問題もある。
自分の問題ではないこともある。
ただ、組織に所属し、チームのメンバーである限り。
他のメンバーの問題でも、自分に関係ないとは言えない。
自分が仕事が出来るように環境を自分の手でと整えていく。

「仕事が出来ません」と言ったら、
「馬鹿野郎、仕事が出来るようにするのも、自分の仕事だ。
待っているな。お足(おかね)をもらているんだからな。
お足というくらい、金が出ていくのは早いんだ。さっさとやれ」と。

不平不満を言ってても問題は解決しない。
まず、自分達に何ができるかを考えよう。

「今、何が、問題なのか。」それをきちんと見極めるように。

結論が下されたり、指示されたら、結論や指示の是非が問題なのではない。
問題は、いかに、結論や、指示を部下に性格に伝えてる事と担当を誰にするかなので。

結論や指示を部下に伝えて、担当者を指名したら。
次に問題になるのは、何を担当者と打ち合わせるかになる。
このように、問題は、手順、段階に応じて絶え間なく変化する。

結論や指示が出た後に、結論や指示を問題にしたら、問題を蒸し返すことになる。
結論や指示が出たら、それに、無条件に従う。
それがルール。
責任者は、結論や決定が下ったら、以後、批判や陰口は控える。
責任ある者が、無責任な言動を取ると統制が乱れ、結果的に、部下が、自分の指示に従わなくなる。

つい出る愚痴や、不満、陰口が悪い影響を組織に及ぼす。
特に、責任者やベテラン、補佐役の愚痴や不平不満は組織を解体する危険性をはらんでいる。
厳に戒めるべきである。
いうべき事があったら、決定が出る前に、言うべき時に、言うべき場所で、堂々と言う。
一度、段が下ったら粛々と従う。従えない者は去る。
それが責任ある者の態度だ。

トップに話をもって行くのはいいけど、トップに料理をさせる事だけはやめろ。
生肉をどんと出したり、土のついた野菜をテーブルに並べられてもね。
酷い奴は、注文を聞いてから、材料を仕入にいてきますとか。
「トップに、料理をさせる気か」ってね。
客に、料理をさせたら、料理人はいらないからね。
あまりに自分の仕事に誇りがなさすぎる。
要は、社長が食べられるように、原料、資源、情報を調理するのがスッタフの腕の見せ所。
無論、客の注文を聞かずに勝手に料理する料理人も願い下げだけどね。

なんの方針も立てないで、上申されても上司は、やりようがない。
「何が言いたいんだ。」

指示や会議で結論が出たら、担当部署(指示された部署、或いは、主管部署)速やかに、総務に指示して関係部署の責任者を招集してもらう。
その上で、方針を定め、各部門の担当を指名させ、速やかに担当者間の打ち合わせをいつするかを決める。
段取り方針が定まったら、総務、主管部署から、必要に応じてトップまで報告する。

また、打ち合わせは、打ち合わせの目的、つまり、問題点を明確に、予めしておく。
その時の目的は、問題は、方針なのか、対策なのか、問題は何かを明らかにし、時間を掛けずに集中的に審議する。

裁定してほしい事があったら、経緯、事情、問題点を整理し、何をどうしてほしいのかを明確にしたうえで上申するよう。
裁定を求められた者が判断ができるようになるまで、整理、調整してから上申するよう。
要は、生肉をいきなり持ってくるのではなく、ちゃんと食べれるように料理してから提供するように。
また、担当に仕事を任せる場合は、担当が仕事が出来るように環境を整備するよう。
それが、マネジャーの仕事。
よく、「それでお前は、上司が判断できると思うか。」
「担当が仕事が出来ると思うか。」
「それで、仕事が出来ますか。」
「考えてやれ」と叱られた。

組織では、一人の問題でも、解決は総がかりになる。
なぜなら、一人の問題でも、影響は全体に及ぶから。
一人の問題でも。同じ組織に関係ない人間はいない。

責任者が、担当を明確にできないと言う状態は、なんとなく担当していると言う状態を意味し。
それでは、責任の所在も曖昧になり、指示命令も定まらくなり、通らなくなる。
当然、組織としての統制もとれない。
一人ひとりが、どんな仕事をしているのかも判然としなくなり。
秩序が保たなくなる。
賞罰も曖昧になる。

要は、組織的な仕事がされてない状態で。
各自がてんでんバラバラに、自分勝手に仕事をしている状態である。
組織的な仕事になっていないため、非公式な指示命令系統に支配されるようになる。
裏ボスが、生まれやすい環境になる。
また、不正も防げなくなる。
たかが担当と侮るべきではない。
担当者は、その場を仕切る者が明確に指名する必要がある。

誰が、担当かわからないと言う状態は、老朽化した組織に往々にみられる。
決して、稀なケースではない。
ある意味で組織の病と言える。
無責任な組織は、担当を明確にされるのを嫌がる傾向がある。

誰が担当しているかわからないと言う事は、誰が責任を負っているかもわからない事で。
要は最初から無責任で。
担当を決められないと言う事は、最初から、責任を持てない事を意味し。
担当が決まっていなければ、指示もできない。
要は、ただ漫然と目の前の仕事を、今までやっていた通りにこなしてるに過ぎない。
それは群れているにすぎず。組織とは言えない
なぜなら、組織は人も仕事も相互に結び付く事で成り立っているからで。
何の脈略もなく、結びつきもなく、ただ淡々と、目の前の仕事をこなしている集団を組織とは言わないからである。それは群れているに過ぎない。
なんお結びつきも、結束も見られないから。
担当がハッキリしないと言う事は、組織のどの部分を受け持っているかがハッキリしてない事を意味し。
それは、放駒でしかない。
苦情だって「担当者を出せ」と怒鳴り込んでくるので。

担当の決め方は、一様ではなく。
地区別とか、顧客別とか、役割に応じるなんて。
ただ一番困るのは、担当を決められない事。