総ては、存在の働きから

純な存在の働きは継続性、持続性、存続性として現れる。
存在の働きは継続しようと追いう働きとして現れ。
それは、存在を守ろうという働きとなり。
それは、自分を守ろうという働きに転じ。
それは、自分を生かす存在を生かそう守ろうという働きになり。
自分が生かしている社会、集団、国を守ろうとする働きになる。
そして、自分を善くしようという働きになり。
自分を生かす環境、存在よくしようという働きになり。
それが善となり、愛に転じる。

働きは、働きを生む。
働きは、他の働きに転化する。 働きは、連鎖する。
働きは、共鳴、共振、共同する。
働きは、均衡する。
働きは、一体化する。
働きは、意志の働きを生む。
主体的働きに転化する。
主体的働きは、分別の働きに連鎖し、意識の働きの転化する。
主体的働きは自他の分別の働きになり。
自他の分別の働きは、内と外のの働きを生み。
内と外の働きは均衡する。
意識の働きは、外部の存在の働きに、共鳴、共振し、共同する。
自他の働きは主体的働きによって一体化する。
このように、存在の働きから全ての働きは生じる。
故に、この世界は存在の働きによって統一されている。

作用反作用、相互牽制、相互抑制、自制だよね。

そして、自分を存続したい自愛。
相手をよくしたい慈愛。
愛によって昇華(アウフヘーベン)。

問題は働きとその背後にあるシステムですね。その組み合わせが国民国家、民主主義の本質です。
その原点を明らかに根本を統一してかかる。

働きは力

働きは力である。
働きは力を生む。
働きは力となる。
働きは力になる。
働きとは力である。

存在の働きから、自己(主体)の存在の働きが生じ。
自己の働きによって国家の働きが生じる。
国家の働きによって権力が生じ。
権力の働きから三権の働きが分裂して、制度が生じる。

この他の流れは、自己の存在の働きから指導者の働きが生じ、指導者の働きが君主の働きに転じる。
このように働きの変化は一様ではないが、大本は一つ。
存在の働き。

変化の過程は不可思議。ただ根源は一つで、一つだから、一体になれる。

存在の働きとは、存続、継続しようとする働きである。
存続、継続させようとする働きとは、自分が存続していくために適した環境を作り、持続させようとする働きで。
それは、自分の環境を良くしようとする働きである。
自分を良くしようとする働きは、自分を正しくする働きである。
自分を良くしようとする働きは、自分の家族を良くしようとする働きで。
自分の家族を良くしようとする働きは、自分の国をよくしようする働きで。
自分の国を良くしようとする働きは世界を良くしようとする働きである。
世界を良くしようとすることは世界を正すことであり。
世界を正すことは、国を正すことであり。
国を正すことは家を正すことで、家を正すことは自分を正すことである。

この様に、自己と家と国と世界は対立軸ではなく、統一軸である。

国民国家とは

では国とは何か。
国の働きとはなにか。
国の働きとは。
国の存続のための働き。
国を存続するためには、国をよくすること、正すことである。
国を存続するとは主権と独立を守る事である。
主権在民。

主権と独立を守るとは、国民の権利と義務を守る事。
国民の生命と財産を守る事。
国民の自由と平等と相互扶助を実現する。

国民国家が成立したときに個と全体は対立軸ではなく統一軸となり、働きは双方向になった。
そして対話が前提と。

国民国家は一人ひとりの国民が主体的に関わる事で成り立っている。
では、国民が主体的に関わるとは、どういう事か。

根本は、自己存在、存在の働きです。

自己は主体。

自己は、主体である。
自己を客体化したのが個人である。
個人が主体的に関わること形成されるのが、国民国家である。
つまり、個人が主体的に関わることで国民となるのである。

国民の根本は、自己存在の働きである。
自己の倫理観を基礎にして国家の法は形成される。
自己の倫理観は、外界に自己が主体的に関わることによって形成される。
すなわち、自己の育った外的環境、教育、社会、人間関係、自己の肉体的能力、容姿、性格、経験や体験等か複合的に作用してけいせされる固有、ユニークな相対的働きである。

故に、倫理は、外的規範によって一方的に強要することはできない。
合意に基づくことが前提となる。

国民国家の法と自己の倫理は、双方向の働きによって形成される。
個人の倫理はユニークであり、すべてを統一することは事実上不可能である。
故に、了解可能性と契約に根拠が求められる。
すなわち、形式と手続きである。
即ち、国民国家の正当性は形式と手続きを根拠とする。
そして、契約と宣誓が求められる。
なぜ、形式と手続きに正統性の根拠を置くのかどう言うと思想信条によって統一しようとすると、自己の主体的働きと対立する危険性があるからである。 要は構造である。

国民一人ひとりの存在の働きが国民国家の支柱となる。
では、形式と手続きが整っていれば国民国家と言えるかと言うとそうではない。
最終的に働きである。
働きか結果によって認められた時、はじめて証明される。
その意味では、国民が国民として正しい働きをしている、正しい働きを保障されていることが必要要件である。

働きとは力である。

例え、選挙という形式と手続きが整っていても、国民が正しい選挙活動が可能であることが保証されていなければ、いくら形式や手続きが整っていても、実体があるとは認められない。

ただ形式と手続きは最低限の必要要件だということである。
自己の存在の働きがどこまで保証されているかによって自由と平等がどこまで実現されているかが測られる。

基本、始まりは、革命。暴力的。これは歴史的事実。
同志的、全員一致。最初の全員一致は、決め方と決めて事に従うという一致のみ。一度。合意が形成された後は形式と手続に従う。
暗黙の全員一致。

国民国家は暴力的の成立したことを前提としないとつじつまが合わなくなり、新たな国民国家は成立できなくなる。

国民国家の成立には既存秩序の断絶が不可欠であり、歴史的にはそれはしばしば暴力を伴ってきた。この事実を無視すると国家成立の説明は空洞化する。ただし、その断絶は必ずしも暴力に限定されず、対話という手段が閉ざされたときに暴力として現れる。

国民国家というのは非暴力的な政権の交代を前提としてはいるが、国家を成立させる段階では、暴力的な支配者から権力を奪取しなければならない。
故に、革命的手段(独立、革命等)を否定してしまうと、国民国家は成立するのが難しい。
また、独裁主義や全体主義は暴力を肯定しているために、一方的、暴力的手段を否定すると、自分達を自衛することも、仲間を救出することもできない。
民主主義政権が短命で終わる原因は一方的に暴力的手段を放棄することにある。
無抵抗主義は、独裁的権力には無力である。
独裁主義国、君主国と国民国家との非対称性ですね。
現実にイランでウクライナでガザで戦闘が繰り広がれている事実から目を背けるべきではない。
そして、その暴力の被害者は女子供、社会的弱者だ。

自国が望もうと望むまいと他国は侵略してくることがある。

医者がいるから病気があるわけではなく。
警察があるから犯罪が生じるのではなく。
消防署があるから火事になるわけではない。
今も圧政のもとに苦しんでいる人々がいることを忘れてはならない。
暴力的手段を排除できない。

暴力を肯定するのではなく暴力を直視する事です。
医者は、病を直視する。

エネルギーは危険物です。
ただ危険物だと忌避するのではなく、直視し、正しく理解し、格闘する。

自分の内に潜む暴力性を直視せずに暴力を制御することはできません。
好むと好まざると己の内に潜む暴力性を白日にさらすべきなのです。
克己復礼。
自分に克つ為に。

日本人は、現在の日本が暴力によらず成立したかのように錯覚しているが敗戦という暴力によって戦後の国民国家は成立し、明治維新という暴力によって大日本帝国は成立したのである。
ただ、国民国家は、政権の交代を前提とし、暴力によらない政権の交代を仕組みとして組み込まれた体制であることを忘れてはならない。

それ故の革命であり、独立である。
暴力を否定すれば、暴力がなくなるわけではなく。
暴力とは相手がある。自分が攻撃しなくても相手が攻撃してくることがある。
暴力によらない手段が保障されてはじめて暴力は抑制できるのである。

国民国家の軍事的指導者は、国家国民に対する強い使命感をもつ必要がある。
過去の歴史を見てもわかるように国民国家は、容易に軍事独裁に取って代わられる。
なぜなら、国家の混乱の中から国民国家は誕生するからである。

まさに、太極から陰陽生じるである。
その意味でもアメリカ合衆国は、稀有な体制なのである。
また、国民国家の軍は、国民国家と国家国民に対する忠誠が求められる。

働きはベクトル、テンソル

働きは、働きを生む。
働きは、他の働きに転化する。
働きは、連鎖する。
働きは、共鳴、共振、共同する。
働きは、均衡する。
働きは、一体化する。

お金」も働きがなければ価値を生まない。

働きには方向がある。
すなわち、ベクトルであり、テンソルである。
ゆえに、次元がある。

法や方針には、社会、組織の働きの方向を整える働きがある。

国民国家、国民の根源は存在の働きである。
国家というものがあるわけではない、観念があるわけでもない。
国家の働きがある領域に働いてているのである。
国家の働きとは存在の働きで、存在の働きとは領域内に住む国民を存在させようとする働きである。
また、そこから派生して国籍のある人を保護しようとする働きである。

働きは、意志の働きを生む。
主体的働きに転化する。
主体的働きは、分別の働きに連鎖し、意識の働きの転化する。
主体的働きは自他の分別の働きになり。
自他の分別の働きは、内と外のの働きを生み。
内と外の働きは均衡する。
意識の働きは、外部の存在の働きに、共鳴、共振し、共同する。
自他の働きは主体的働きによって一体化する。

このように、存在の働きから全ての働きは生じる。
故に、この世界は存在の働きによって統一されている。

なぜなら、国民国家は国民の働きを根拠としており。

国民の働きとは、即ち、存在の働き→自己の存在の働き→自己の主体の働き→国民の存在の働き→国民国家の働きという変遷によって国民の権利と義務は成立しているから。

修身 斎家 治国、平天下。
古之欲明明德於天下者、先治其國。
欲治其國者、先齊其家。
欲齊其家者、先脩其身。
……身脩而后家齊。
家齊而后國治。國治而后天下平。

主とは

何を主とするか。
主とは中心的働きをいう。
主とは統一的働きである。
主となる実体を主体という。
主とは内なる働きで、外部から見た時、客となる。

主は一であり。主は統一的働きである。
故に主体は唯一である。

国家は主体的存在である。
国の主体を客観的にした働きが主権である。
国民国家の主権は国民にある。
主権在民である。

主権在民。
国家の独立と主権は国家の存在証明であるとともに国民の存在証明でもある。
国民国家の主権は国民の主体性の顕現でもある。
国民があって国民国家があり。
国民が国家の意志、魂、ならば国民国家は肉体。

気を集めれば心が籠り。
心が籠れば命となり。
命となれば、魂が入る。
魂が入れば、神宿る。

国家の働きは集合的主体である。
集合的主体は全体と部分からなり。
主体的働きをするためには、全体も部分も各々統一的働きをする必要がある。
勇断には中心がある。中心には、重心、内心、外心、垂心等がある。
集団の中心的働きをする人を主人という。客観的には、指導者である。

国民は、集団、主体の集合であるから、全体を代表するはたらきを必要とする。
集団を代表する働きをする人を代表者という。

集合の代表値には平均、中央、頻度などがある。

選挙とは、代表者を選ぶ統計的手段である。
国民国家は統計的体制である。
統計的手段は、選挙だけではない。

国民国家は、人口構造物、システムである。
人の意志によって構築された仕組みであって、無為自然になる物ではない。

自己の主体的働きが集まって国民国家は形成される。
故に国民の集合的意思の働きが力になる。
その力を結集する、哲学と思想が具現化して法を作る。
国民国家は、思想的、法的構造体である。

存在は、自己(主体)との関係と位置と働きによって認識される。
存在の働きは主体との関係と位置と働きによって認知されるから、国民国家は、国民間の位置と関係と働きによって形成される。

自分を存在させる働きは、自分で守らなければならない。
働きは力だからである。
自分を守ろうとする働きが自分の力になる。
外に向かって自分の内を守ろうとする働きが内と外を正す。
これが国民の権利と義務を生む。
権利も義務も、法も、与えられる働きではなく、存在の働きから生じるはたらきである。

経済の中心は国民生活

本来の働きから逸脱すると齟齬が生じる。
存在、本来の働きは、存在する、生きることです。
裏返すと存在させる、生かす事で。

国民は自分が生きるために国家を存在させ、国家は存続するために国民を生かす。 故に、国民生活が最優先のはずですが、軍の働きが優先されると国民生活は後回しにされ。
犠牲にされる。

国防を蔑ろにしろと言うのではなく、均衡を保てというのである。
とかく、オ-ル・オア・ナッシングになる。
だから、働きの優先順位をどうするか、そこに、思想や考え、基準が求められるのである。
根本は国民生活にある。

国民生活に脅威になるから国防を考えるのである。
公共投資も然り。
国民生活に必要だから投資するのに、公共投資が既得権、利権化すると本来の働きから逸脱する。

物事には順序がある。
働きにも順序がある。
先ず、国民生活を成り立たせるために何が必要なのかを明らかにする。
金儲けのために働くのではなく、生活のために働いて金を儲けるのである。
実はこの手順、順番が重要なのである。

国家存在の働きの根本は国民生活をいかに成り立たせるかである。
つまり、国民をいかに生かすかで、それは国家の存在に関わる。
そして経済とは、人が生きるための活動、裏返すと、人を生かすための活動だと言える。
人が生きるためには衣食住が不可欠で。
国民国家が存在するためにはすべての国民に生きていくために必要な最低限の衣食住を提供する事が求められる。
故にそれが国民国家第一の働きになる。

国民生活を優先したら争いは極力避けるべき。

なぜ、ここで人の生活を出したかというと、先ず、生活設計から始める必要があると感じたからで。

そこに国民国家の起点があります。
そこから経済の働きも政治の働きも財政の働きも国防の働きも派生します。

枠組みですね。
人生設計。生老病死。
それと、基礎的支出、衣食住に、交通、エネルギー、通信費。その他を分類した上。
超長期、長期、短期で区分していく。
それに、収入と支出を分けて考える。

人生と長期の収支と日々、家計簿というデイリー、一日の収支、そして人口構成の推移を組み合わせる必要がある。

個の集合だけど経済全体でみると人口構成が決定的な働きになる。
生産労働人口と総人口の構成の変化が決定的要因となる。

自分の力で働いて収入を得られる人口とその推移、それに対して扶養される人口の割合の推移。
扶養家族が増えれば増えるほど経済の負荷が大きくなり、収支の密度に質的差が生じる。
それが国家経済最大の課題になる。

何故かというと、働ける人の労働力が働けない人の面倒を見る為にさかれるから。
見た目以上の負荷がかかる。

しかも一人の人の所得で負担する人の人口が増えれば、所得の働きに質的差が生じる。

実質的経済量は、人口に比例する。
実質的経済量は物質的実体を伴う。
実質的経済量は、消費量を意味する。
実質経済量は、物理的制約があり、有限である。
実質的価値は存在の働きにより、名目的価値は、認識の働きによる。
外的存在から発する働きの制約を物質的、実質的制約といい、内的意識から発する働きの制約を名目的制約という。

たとば、電気や磁気、システムで無形で目に見えなくても働きが認知出来たら物質的働きとするのである。
それに対し数やお金の働きは名目的働きとするのである。

税制は、部門間の均衡を考え、人口の変化に応じて可変的な余地を残しておく。
税も分配の手段であり、通貨の流通量、物価、人口の変化、部門間の関係によって変化する。
次に公共投資について検討したいと思う。

国家の起源は軍事である。
これは、歴史的事実であり、公共投資を考える時、この点を念頭に置いておかないと、公共投資の性格を明らかにできない。

経済は投資から

経済は、投資から始まる。
投資は、主体、部門によって公共投資、設備投資、住宅投資、金融投資があり、各々、それぞれがよって立つ部門の性格を反映している。
まず、投資の基本的に構成を明らかにしておく必要がある。
投資は投資主体以外に生産者と消費者がいる。
これは、「お金」の流れと効果・効用を明らかにするためのカギとなる。

まず、市場経済の中核となる設備投資の構造を明らかにしたい。
設備投資とは、投資者が生産手段としての設備を金融機関や投資家から資金を集めて、生産者に設備を購入し、設備によって商品を生産し、消費者に売ることで収益を上げ設備投資の資金を回収する事である。
設備投資は、初期投資の段階では、金融機関から設備投資をするものがメーカーに「お金」が流れ、消費者から市場を経由して「お金」を回収し、金融機関に返済する。
住宅投資は、消費者が、金融機関から借金をして、建設業者から住宅を購入し、自分が働いて得た収入、所得の中から返済する。

公共投資は、税金を使って建設者に「お金」を支払って行われる。
資金の回収は、基本的に考えていない。
初期投資で税を使った段階で完了している。
「お金」が市場に流れるのは、労働者に賃金として支払われ、その賃金で財を購入した時だけである。
投資の効果を測る事はできない。
公共投資は、消費者と直接的な金銭的関わりはない。
公共投資だけでは市場に資金は循環しない。
所得に回された分だけ市場に還流される。
国債を発行すればその分余剰資金として金融機関に滞留する。
故に、景気対策として公共投資は最終的な解決にはならない。

ここで思い出してほしいのは国家の起源は軍事だということです。
この点が公共投資に決定的な影響を与えている。
国民国家以前の軍は人民とは無縁だった。
国民国家が成立する以前は、軍は私兵であり、財政は、宮廷官房だった。
国民国家が成立しても、軍や財政には、国民国家成立以前の傾向を色濃く継承している。 かつての軍は、私兵であり、公共事業は、施し。
民間、営利事業を蔑視し、公の事業は、別格で利益は度外視しても許される。それがお役所仕事になる。
また、支配者、被支配者という一方的な関係を土台とする。

しかし、国民国家は、主権在民を旨とする。
国家と国民は双方向の働き、権利と義務によって成り立ち。
国家理念、国家構想に基づかなければ国家目的は実現できない。
軍も国軍であり、国民の生命財産、国家の独立と主権を守ることを目的としている。
公共事業、公共投資は、国家理念、国家構想、国家戦略を明確にしなけれ既得権益、利権化する。
公共投資の回収は税によるが税が歳出と直接結びついていないため市場性がない。
そのために投資、生産、消費の循環が生まれない。
公共投資を景気対策に多用するのは危険。
私は公共投資を否定しているのではなく。
目的が不明瞭で、土建のような既得権益に偏った投資はかえって経済を停滞させる。
国家構想、国家理念、国家戦略に基づいた効率的、整合的な投資であれば市場が成熟して時に補完的な投資をすると同時に営利性を持たせるべきと。
国防も戦略が明確でないと抑止ができなくなり、既得権益化する。
国防を否定するのではなく。
公共投資も同じ。無原則で後先を考えないで。

行政の民主化が前提。
今の財政は全体主義、封建主義、権威主義的すぎる。
営利性、結果責任を重んじる仕組みにしないと。
責任の所在を、経済的結果を正否善悪で評価すべきではない。
結果責任を問うためには主旨、目的、目標、構想をあらかじめ明確にすべき。

公的な世界では、利益は悪いことで、私的な世界では、利益は目的だとしたら、一方的に黒字と赤字が積み上がる。
利益は指標である。

差が悪いのではない、差とする根拠が問題なのである。 ​
人の役に立つから価値が生じるので、金儲けのために価値があるのではない。 AIも人の役に立つことをすれば価値が生じるので、金もうけはその結果である。 人の役に立つから金が儲かるのである。

公共投資は、所得の配分には影響し、国債の発行で資金を調達すれば市場に資金を供給することになる。
ただ、基本的に所得は分配の基準であり、経済は閉じた系であり、全体は零和に均衡している。一意的に増加することはない。
すべての消費者に必要な「お金」を配分することが前提なのである。
経済的効用がなければ「お金」は、循環しない。
経済的効用とは、そこで人が生活、人の営みに関わっているかである。
経済量というのは財や用役の消費量である。

教育は権利であると同時に義務でもある。

根源は愛。
愛の働き。
人類愛、愛国心、家族愛、自愛。

なぜ、教育は義務なのか。
教育は権利でもある。
何を教えるのか。
愛国心、国を愛する事。
国民が愛せる国にする事。
故に、教え、学ぶ。
国の成り立ち、国の仕組み、権利と義務、国の働き、国民の働き。
故に、教育は権利であり、義務。
教育は、受験の為でも教育のための教育でもない。
国民国家の働きを学び国民として働くために。
学び教える。
それが義務教育の目的。

忠とは心に中る。
自分の心から出る誠。隷属でも、服従でもなく。
心から国をよくしたい思い学ぶこと。

忠なるが故に愛国心は服従、隷属を意味せず。
諫言、忠告も愛国心から。

故に国民国家は愛国心から生まれ、改心する。

故に愛国心のある者は争いを望まない。
何故なら愛国心の本性は、国民愛だから。

真の愛国心を教えられない教育は教育ではなく。
義務にも権利にも反する。
何故、先の大戦で逝った若者のいつわざる声を教えてはならないのか。