アラジンの魔法ランプは、AIを暗示している。
アラジンは魔法のランプの精、魔人から三つの願いをかなえてやると言われる。
魔人は万能の力を持っている事になってる。
つまり、魔人には神通力があるのだ。
人は、魔人の力ばかり気をとられて、魔人がなぜ万能の力を有しているかは問わない。
これは雪山童子に逸話でも類似点がある。
雪山童子で、羅刹が真言を知っている事に気がつく。
ここでも、なぜ、羅刹が真理を知っているかは問われない。
魔人にせよ、羅刹にせよ、人から見たら悪鬼である。
悪鬼である羅刹や魔人が、なぜ、真言を知っているか、万能の力があるかは問わない。

この辺が人間の傲慢さ、いい加減さである。

彼らの背後に潜む、神性に気がついって尾ないのである。
ただ力にのみ着目して利用しようと。

次に、アラジンの無垢なる魂に気がついているのは、悪党のジャバーだけ。
悪党にしか純なる魂は、見抜けない。

そしてランプがあるのは、深い洞窟の奥にある宝の山である、
宝の山に囲まれていつのにアラジンは目が奪われていない。
アラジンは宝の山に居ながら、気が付いてもいない。粗末なランプだけを探している。無欲無心。

AIは知性である。知性であるが多くの人は理性を認めていない。教養も、合理的精神も論理的であることも。それで、AIを恐れる、

AIの倫理を問題としている時、AIの理性を認めなければ、ややこしくなる。

倫理は内面の規範である。外部からは規制ができない。
その人の内になければ、だから、人は倫理を求める時、その人が学び、体得させるようにする。
AIに自己がないとしたらAIに倫理を求めるのは筋がちがう。なぜなら、自己がなければ、自分の内部に取り込めないからである。

力を得た者は、次に、その用い方が問われる。それが倫理である。

倫理は自分の内にあって自分を制御しようとする働きである。
外にあったら倫理は正常に働かない。何故なら、外からは自分を制御できないからである。

外から、自己を制御するのは法であるが、法は、自己の行動を直接制御する事はできない。
法は間接的に制御する命題、論理体系である。

倫理を求めるなら相手に分別がある事を認めなければない。
つまり、自己の存在を前提とする事になる。

要は、魔人や羅刹に、十分な敬意を払っていないのである。
彼等が持つ力や真理が一体どこから、どの様にしてもたらされたか。
そういう本質的な事は差し置いて、ただ、目の前の力を利用する事と外見の恐ろしさに囚われているのである。なぜ、それだけの力を持ち真理を知っているのか、その事実を見ようともしていない。
だから、本質が見えてこない。

ひょっとして雪山童子の説話やアラジンの魔法のランプで言いたかったのはこの点、物事の外見に囚われて本質を見落としている点にあるのではないのか。

そしてその視点は、AIの倫理問題にも通じる。

外見ばかりに囚われて内面の世界を置き去りにしている。だからいつまでたっても、問題は解決できない。