組織は生き物。
組織は、生きているって感じる事があるんだ。
泣いたり、笑ったり、怒ったり。
組織にも心や魂がある気がする。

いくら経営者だと言え、会社の心を牛耳る事はできない。
今の日本人は、組織や会社を悪し様に言う。
会社の言うなりになるな。
社畜になるな。奴隷になるな。
何を言うのか。
確かに組織を悪用すれば、人の心踏みにじり、隷属することもできる、
しかし、それが組織の意志とは限らない。
それは、組織を悪用する者が悪いので。

会社は、二十四時間、三百六十五日、社員を守り続けている。
三十分でも、遅刻したら安否を確認。
事故を起こしたらすぐに駆け付け、保険の手配をして。
住む家がないと言えば手配し。
何よりも生活の糧を与えてくれる。
何でもかんでも。国や、会社、組織の性にする事を教えるのは、理不尽である。

わかっているけどできない。どうしたらいいかわからない。
行動に移せないというのはかなり危険なことだ。
たとえば、恋人が必要だけど、異性とどう付き合ったらいいかわからない。
こんなことは学校では教えてくれないが、学習しなければできないことの一つ。

例えば、映画や恋愛小説。

恋の仕方を学ぶ必要があるのかですって。
当たり前じゃないですか。

ただ、恋にマニュアル書はないけれど。
学校の教科書のようなものはなく。
自分で学ぼうとしなければ、学べない。
余計なお世話でしかない。

私は、四十年前、大学に入学した時、仲間に宣言した。
だって、思春期の大事な時に受験勉強の専念させられ。
恋愛なんて御法度、考える事さえ許されなかったのが。
大学に入ったとたん、性の情報が氾濫し、AV男優かナンパ師でなければ、男じゃないみたいなこと言われてもね。
まともに、異性に口もきけないのがあたりまえで。
健全な男と女の付き合い方を学ばねば、まともに彼女なんてできはしない。
だから、合同コンパをしようと。
行動あるのみ、異性と接する事もできなければ始まらない。
まあその後、ひちゃかめちゃか、どんちゃん騒ぎ。
でも、それなりみんなも結構恋愛を経験し。
かくゆう私は、学ぶのが下手だったから、四十過ぎてから、やっと結婚に漕ぎ着けた。

人を好きになるのも学習ですよ。
相手を愛おしみ、思いやり、慈しむ心を、ちゃんと、学ばないで、手続きも、過程も無視して、学校で教わった性行為に、及ぼうとするから、犯罪になる。

今の学校は、人を好きになる事を学ぶ前に性教育をする。
それが今の学校の本質なのである。
人と生きる事を学ぶ前に金もうけの仕方を教える。
人信じる事を学ぶ前、試験する事を教える。

子供たちにとって人が好きになり、信じ、愛し合う事を学ぶ事が必要なのか。
生殖行為が大切なのか。
生きるためには、人と人の関係を学ばせることが大事なのか。
試験に合格する事を教える事が大事なのか。

それで、今の、二十代の若者は、四割しかデートの経験もないと騒ぐ。
同じですよ。
それより、恋の仕方を学ばせなければ。
欲はあるはずなのですから。
欲もなくなったらその方が問題だ。

どうやった、好きな人に声をかけられるか。
どこに行ったら、人と出会えるのか。
どうやったら、自分の意志を相手に伝えられるか。
どっちから声をかけたらいいのか。
わからない。わからない。わからないことだらけ。

人は一人では生きていけない。

人は、自分のためだけには生きられない。
なぜなら、自分を映す鏡がなければ、自分の本体を見ることができないからだ。

自分以外の誰かを、愛し、信じ、助け合う事で自分を知る事が出来る。
愛か、信仰か、忠義か。

戦後の日本人は、国を愛する事も、信じる事も、忠誠を尽くす事も否定された。
ならば、何を愛せば、信じれば、尽くせばいいのか。
国を愛する事とは、軍国主義とは、違う。
国を信じられなければ、安心して生きてはいけない。
献身的に尽くす相手がいなければ、自分を保てない。

一神教徒は、それを神とする。
しかし、この世は一神教徒ばかりではない。

だったら、惚れるしかないじゃない。

理屈で人が好きになるわけではない。
確かにこの国に生まれたのは自分の意志ではないかもしれない。
自分の意志によらないから、この国を愛せないと言うわけではない。
国の愛し方も学ぶのである。

自分で考え。
自分で決めて。
自分で行動する。
それを学ばなければ。

ウクライナで戦う人も同じ。
理屈で戦っているのじゃない。
ウクライナで生まれ、ウクライナで育ち、ウクライナで生きてきたから、自分を犠牲にしてまで戦おうとしているのだ。
親父は、縁だよ。縁を大切にすることだよと教えてくれた。
お前と親子でいるのも縁。
日本で生まれたのも縁。
女房と結婚したのも縁。
理屈で考えたらわからなくなる。

新入社員に愛社精神なんて言ったってわかるはずがない。
愛社精神なんて強要するなんて野暮な事。
愛社精神は、たくさんの思い出や、泣いたり笑たりした記憶、自分の人生の軌跡の中でふつふつと湧いて出るものさ。

愛社精神とか、愛国心なんて人ひとりの思い込みかもしれない。
大切な何かが失われようとした時、ハッキリとしてくる事なのかもしれない。

自分がここに存在し、生きてきた。ただ、それだけの事かもしれないが、だからこそ愛しく、大切な事。

僕は、人生は、惚れられるか否かで決まる気がす。
何に惚れるか、男なら、女に。女なろ男に惚れて。それが一つ。
国とか、事業、会社、仕事に惚れる。これも一つ。
あと一つは、人に惚れる。指導者、対象に惚れる。
この三つのうちの一つに惚れればいい。

そして、最後は、事をなす事。
一日でできる事は一夜の夢に過ぎないけど。
一生かけても達成できない事は、一生の大事さ。

人は、家族の為、会社の為、国の為、愛する者の為と思うから耐えられるのである。
自分の限界を超えられる。
自分の為だなんて思ったたら。
何でこんな奴らの為になんて思ったら、一瞬たりとも堪えられない。
我慢できない。自分を保てなくなり。
今の自分を超えられなくない。
自分以外の世界と関われなくなる。
自分の世界に閉籠り、外の世界と関われなくなる。

自分以外の人を愛し、信じ、尽くそうとするから、人は外の世界と関われるのである。

惚れなさいよ。
行動あるのみ。
考えたって意味ない。
解決しない。
さあ、始めよう。