学校では、チームワークは教えられない。
なぜなら、学校のクラスは、チームではないから。
この点は、ハッキリさせておく必要がある。

学校のクラスは、集団であって、チームではない。

チームというのは、一つの目的を、共有し、共同で連携して達成する事を目的とした集団である。
確かに、学校のクラスは、学習という目的を共有しているかに見えるが、それは、個人の目的であって、集団の目的ではない。
だから、目的を共有し、共同で、連携し、つまり、助け合ってと言う部分が完全に抜け落ちている。

お互いが助け合って、目的を達成すると言う事が、学校では教えられないし、教えない。
だから、学校では、チームワークは教えられないし、むしろ、学校では、クラスメートは、ライバルであり、競争相手に過ぎない。

クラスメートは、チームメートとは、正反対で、助け合ったり、補い合ったりはしない。
だから、学校生活が長く、集団活動をクラス活動でしか学んでこなかった人は、チームワークができない。

集団活動は、クラス活動だけでなく、チームワークもあるし、世の中では、クラス活動は、稀で、チーム活動が主である。
クラスだから、一人の先生で何十人、大学になると百人を越える生徒を相手にできる。

要するに、クラスは、個の集まりだからである。
生徒間の目的は個人的目的で、生徒間に役割分担も、連携もいらない。
助け合う必要はないし、結果はあくまでも個人の問題である。

チームワークは違う。結果にたして、チームメート全員が責任を取らされる。

全体を構成する一つひとつの仕事や作業は、互いに深く結びついている。
だから、自分勝手に仕事や作業をする事は許されない。

よく、任せてくれたんだから、嘴を挟むなと言い出す者がいるが、それは、任せられると言う事の意味を誤解している。
自分が、任された仕事の結果は、全体に、影響を及ぼすのである。
当たり前に、互いの仕事をよく理解し、助け合い、補い合う事が求められている。
だから、常に、自分の仕事、任された仕事を公開し、確認する事が求められる。

チームワークは、一人仕事ではない。

チームワークは、マニュアルや、教科書では学べない。なぜなら、
チームは、メンバーによって変わるからである。
野球では、メンバーが一人代わっただけで全く違うチームになる。

だから、チームワークは、経験的に、実地に学ぶしかない。
それが、修業である。
つまり、教育の手段には、座学と修行の二つがあるが、戦後は、座学だけを重視し、修業をしなかった。
修業とは、経験主義である。

また教育の手段は、学習、研究、指導の三つがある。
学習と、研究、指導の三つ。

学習とは、師から学ぶ事である。つまり、教わる事。
研究とは、自分で、テーマを決めて、調べ、自分なりの答えを導き出す事。
指導とは、自分の得た、知識や経験、技術を教え、伝える事。

一番の教育は、指導である。指導は、学習者の三倍学ばなければ出来ない。
かつての日本は、根三つの要素を巧みに使って教育してきた。
現在の、学校は、学習のみに特化してしまっている。
その弊害が、研究や、指導面に著しく。研究者や指導者が決定的に不足している。

今でも部活では、先輩による指導として残っているが、学年と結びついてしまい。
先輩、後輩の関係を絶対化、形骸化してしまっている。

吉田松陰は、九歳の時に藩校の兵学師範に就任している。
世襲ではあるが、学年、年齢に縛られていなかった証拠でもある。
無論、弊害がなかったわけではないが、今の学校も絶対ではない。

職人の世界は実力の世界であることは昔もまた変わらない。

だから、僕は映画を見てほしいのだ。チームワークは、本来、経験でしか身につかない。
しかし見る事でもある程度は理解できるようになる。

チームワークを理解できないと、社会人としては、通用しなくなってしまう。

チームワークに必要な技術。
会議の技術。
リーダーシップ、メンバーシップ。
ルールの事。
助け合い方。チーム魂、歴史等などいろいろとね。実際的に学べるから。