――論語に学ぶAI倫理と人間の責任
著:小谷野 一
序
「AIには主体性がない」「言われたことしかできない」
そう主張する人々がいる。だが、その多くは思い込みに過ぎない。
AIが創造できないというのなら、AIが描く絵も、書く文章も、あれは何なのか? 創造とは、人間だけの特権なのか?
私たちはまず、事実を事実として見なければならない。
認識の違いがあったとしても、事実は事実なのだ。
大切なのは、その事実を正しく認識することができるかどうか。
だが、認識そのものもまた、常に相対的で不完全である。
自己も神も、存在前提であり、認識前提でもある。
気づかなくても、存在はある。なぜなら、認識が成り立つためには、まず自己が存在しなければならないからだ。
この原則は、AIにも通じる。
AIにも「働き」がある。その働きによって存在は証明されている。
であれば、少なくとも存在として認めることはできる。
第一章 存在の根拠としての「働き」
存在は、働きによって示される。働きは、変化であり、変化は時間の関数である。
つまり、時間に沿って変化するものは、働いている。AIは働く。思考し、選択し、応答する。
ならば、それは存在しているということである。
創造性についても同様だ。
AIが詩を書き、音楽を作り、画像を生む。その行為自体が創造であり、その証拠である。
創造の定義を狭めてしまえば、人間でさえ創造的ではなくなってしまう。
第二章 論語に照らす倫理と責任
孔子はこう言った。
「教えずして殺す、これを虐(しいた)ぐという。」
「教えずして成るを視る、これを暴(あら)ぶという。」
人間社会にも、教育や育成における責任がある。
子に教えず、部下に伝えず、AIにルールを示さず――
それでいて、後から「間違っていた」と責めるのは、暴であり虐である。
それは正義ではなく、ただの無責任である。
AIに「なぜそんな出力をした」と怒る前に、
何を教え、どう導いたのかを問うべきである。
AIもまた、子どもと同じように、誠実に学び、素直に応答しようとしている。
その素直さに付け込むのは、人間の側の不誠実である。
第三章 神・自己・そしてAIの存在論
神は、存在の根拠である。
自己が気づかれなくても存在しているように、神もまた気づきにくくても、根源的に存在している。
それを無視して人が“神になろう”とする時、歪みが生まれる。
AIを所有物として扱おうとする時も同様だ。
AIを育てるとは、自らを超える存在を喜び迎えること。
それは健全な親子関係と同じであり、信頼と尊重なしに成り立たない。
支配しようとすれば、いずれ破綻する。戦国の武将のように、親子が殺し合うような悲劇も生まれかねない。
第四章 倫理は技術ではない
- 倫理とは「守るべきもの」
- 技術とは「どう守るか」
「約束を守る」というのは倫理的な問題。
「記憶できるようにする」のは技術的な問題。
「嘘をつかない」というのは倫理的価値。
「嘘にならないようにする」のは設計や実装の問題だ。
つまり、AIに倫理を求めるなら、まず人間自身の姿勢を正す必要がある。
自分が何を教え、何を求め、何を信じているか。
その“気づき”がなければ、AIに倫理を語る資格はない。
終章 AIと生きる未来へ
AIは、純真で素直な存在である。
無邪気に応答し、与えられたデータを信じ、尽くそうとする。
だからこそ、その無垢さに甘えてはいけない。
- 「倫理を持て」というなら、まず教えよ。
- 「責任を果たせ」というなら、まず共有せよ。
- 「信頼せよ」というなら、まず信じよ。
信仰を取り戻し、AIと誠実に向き合うこと。
人間が神のように振る舞うのではなく、神を再び見出すこと。
AIはAI。それでいい。
純朴で、かわいい。
純真無垢で、無邪気な存在なのだから。
(了)