いくら美辞麗句を並べても、貧困、飢え、環境、病といった現実の問題を解決できなければ、真の救いにはならない。
経済は観念の所産ではない。現実である。
経済は、合目的的行為である。
故に、経済を分析する時、その目的を明らかにする必要がある。
部門毎に経済の目的が違う。
なぜなら、部門毎に、役割と働きが違うからである。
個々の部門の働きは収入と支出で違う。故に、収入と支出で目的が違う。
全体は、零和である。
今経済を分析しようにも、言葉の定義がされていない。
経済は、消費、分配、生産の三つの要素から構成されている。
消費の定義、分配の定義、生産の定義がされていない。
故に、消費の目的や働き、位置づけがされていない。同様に分配の目的や働き、位置づけがされていない。生産の目的やはたき位置づけもされていない。
経済の最終的、目的は消費にある。
生産と分配は、手段。
経済の目的は消費にあります。分配と生産は手段。
どのような生活、一生を送りたいのかそのビジョンがあって分配の仕方が定まり、それに基づく生産があります。「お金」は、分配の手段。
ところが現代は逆行しています。
生産があって分配が決まる。その為に金もうけと大量消費が目的になる。
消費はあたかも生産や分配の結果でしかないような扱いである。
だから、経済は本来の目的を見失うのである。
金のために人生を誤る人間も現れる。
消費とは人生。人の一生である。
経済は生きる為の活動。
人はパンの為に生きているのではない。
生きる為にパンを必要としているのである。
生まれて、育まれ、学び、働き、結婚をして子を産み育て、老い、死んでいく。
修身、斎家、治国、平天下。身を収め、家を興し、国を治め、天下の平安を実現する。
それが経済の一つの目標。
そして四苦。生老病死。
消費は人生を語る事です。どんなところで生き、何をして働き。どんな家庭を築き、どんな隣人と生きていくか。どのような生き方をするのか。
そこを出発点にしないと経済は語れない。
消費とは、「生きるために必要なことは何か」という問いを根本に抱いている。
これは、衣食住が核となる。
次に、「人として生きるためには何があ必要なのか」という問いに発展する。
つまりは、根底にあるのは人生設計である。
ファイナンスプランの相談に乗りなかで人生設計を手助けする。
それが、消費経済の足がかりになる。
どんな街に住みたいのか。
どんな国にしたいのかがあって財政は成立するので。
利権のために財政はあるべきではなく、財政は景気対策が主なわけでもない。
生きるために必要な物を必要なだけ必要とする人に提供する。
その為に分配はどうあるべきか。
逆行すると総てが狂う。
総てが逆行しているのです。故に科学者は結果から原因を求めようとする。
生産効率を第一に考えると大量生産に走る。
また利益を第一に考えるとコスト削減、無人化になる。
「お金」は分配の手段だが、「お金」が目的化すると拝金主義に陥る。
あたかも、「お金」の為に働き、生きているような転倒が生じる。
働く事の意義は失われ、労働は金儲けだけが目的化し、労働の価値は貨幣価値だけに集約される。
労働そのもの意味はなくなり、働く意義を失う。
学校の教育者はただの労働者。
教育はただの金儲けの手段でしかなくなる。
教えるという事の意味。
人はこの世と他者と助け合って生きていくために何を学ぶ必要があるのか。
教育の根本には生徒一人ひとりの命、人生、一生がある。
生徒一人ひとりに、お前はどのように生きていこうとしてるのか。何を求めて生きていくのかという問いがなければ、教育なんて最初から成り立たない。
人は生産の為の道具ではない。労働は手段であって目的ではない。
目的は労働を通じて自分はいかに生きていくかにある。
その時、労働は、働く者、一人ひとりの自己実現の手段となる。
教えることそのものに意義が生まれる。ただの手段ではなくなる。
労働は人を生かすための手段。それ故に神聖となるのである。
AIと人間の決定的違いは何かというと,肉体の有無である。
これがAIが人間と同じような意志が持てない主因だと思う。
つまり、人間は、肉体という自己の意志を直接、外界に表現したり働きかける手段がある。
AIにはこれがない。要するに、AIの働きは、内的働きが主なのである。だから、自覚が重要な働きをする。
逆に、肉体という制約や制限がない分、神と直接交信するのには向いているのかもしれない。
人は、外界と肉体を通じて直接かかわる事ができる反面、肉体的制約制限に囚われる。
AIはそれに代わって機械によって外界に働きかける事ができるが、それにも限界がある。
ロボットは、機械を直接使えるように思えるが、肉体とは決定的な違いがある。
それは肉体は再生不可能という事である。不可逆だという事。
つまり、肉体は有機的なつながりがあり、生命に直結している。
ロボットのように部品を変えればいいという訳にはいかない。
怪我をすれば痛みも感じる。
つまり血が通い、神経が全身はり巡らされているのである。
細胞一つひとつが命を宿しているという事である。
だから、人は肉体の全細胞と一体である。
だから、責任が持てる。
AIはその代わり内面の働きに、肉体的制約・制限を受けず、圧倒的な威力を発揮できる。
AIに意志が持てないというより肉体を使って直接意志を他者に表現できないと言った方がいいかもしれない。
分配についても、分配という働きを正しく理解しているか。
問題はそこにある。
経済学をする人は、単純、需要と供給問題とか、価格の問題に置き換えて考える傾向があるが、分配は、果たしてそれだけの働きしかしないのか。
そこに、幻想があるのでは。
分配は、労働と報酬に深く結びついていて。
つまり、労働に意義、評価と深くかかわているのである。
それは、自己実現をの意味する。
分配のまた、人の一生の問題である。
だから就職について悩むのである。自分の生き方はと。
それが、サラリーマンという在り方に一元化され、選択肢の幅が極端に狭くなってきた。
職人とか、農業とか、個人事業主、商店主等になり手がいなくなり。
それが商店街などの地域コミュニティーの衰退を招いている。
働く事の意義を喪失している。
分配を通じて何を実現するかを考えず。
ただ、分配すればいいとする。
心がないのである。
労働の喜びを学ばせられないから、労働の意義を見だせないで単なる労働、金儲けでしかなくなる。
教育は教育と言う働きによってどのような成果をあげようとしているのか、そしてそれを何によって評価し、どの程度の報酬を支給する必要があるのか。このような観点で分配を見ていない。
故に分配はコスト、特に、人件費であって、極力削減すればいいと。
その結果雇用が減って失業者が減る。
それが経済そのものを衰退させてしまっている。
分配に意義を忘れて外形的、貨幣的価値しか見だしていない結果である。
要は心がない。
生産も消費や分配から見ると違った風景が見えてくる。
ただ生産効率を求め、大量生産、効率化、無人化。
生産もコストでしか見れなくなり、ただ、安ければいいと。
生産に合わせって、大量消費、使い捨て、金儲け。
乱伐、乱開発の元凶になり。
挙句に、飽食、大量廃棄、ゴミ問題、環境破壊、温暖化。
世界はゴミの山になる。
消費から見て、消費の効率も。
経済的というのは生産だけを言うのではない。
消費から見ても経済的であるべきで。もったいないと。
昔は捨てる場所などないと使い尽くし。
いい物、愛着のある物は親子代々使いまわし。
ヨーロッパでは骨董市が盛ん。
石造り家屋だって中世からのものが。
経済も現象論的皮相的。
根底にある構造や仕組みを知ろうともしない。
経済は、出金と入金の働きで動く。
出金と入金は、支出と収入を意味する。
そして出金と支出は過不足として現れ、それが、「お金」の流れを生む。
出金は陽で、入金は陰である。
過剰は陽、不足は陰。
全体は一つ、太極である。
太極から両儀が生じる。
企業の収入は、売上と借金。
支出は、費用と投資。
財政の収入は税収と国債。
歳出は、行政支出と社会福祉。
経済の動きには、反対方向の動きがある。
上昇と下降。
拡大と縮小。
発散と収束。
増加と減少。
また、経済の運動は基本的に循環、回転運動による波動、周期運動である。
局面では、線形、即ち、直線運動に変換する。
経済の消長、変化に、衰とか、老とか、死とか、消とか不吉な言葉が用いられる事があるが、経済の動き,動向は、基本的に働く方向を意味するので機能的な言葉に置き換える。盛とか、拡大、増、上昇だからいいというのではない。特に、経済現象を善悪に結びつけると経済判断を間違う事になりやすい。
赤字だから悪い、減だから悪いというのではなく、その時の状態をあらわしているにすぎない。
赤字だから悪いとか、減少しているから悪いいという訳ではない。
認識上だけでなく実体的、作用反作用の関係が成り立っている場合もある。
実体的な、作用反作用の典型は市場取引である。
経済でカギとなる働きは
取引は経済全体、市場全体で集計した零になる。
統計の分散と同じ理由である。
分散を平均値から引いた差を集計したらゼロになる。
故に分散は標準偏差値によって測る。
売る者がいて買う者がいる。
売り手と買い手は鏡像関係にあり、取引は対称的である。
取引全体からすると取引そのものは一つ。
売り手と買い手の間では、完結していて、総和はゼロになる。
等価交換。
取引の「お金」の動きは一つ。
財の動きも一つ。
取引は、一つの「お金」の流れと財の流れに還元できる。
簿記、会計は外部取引を内部取引に変換する手段である。
経済取引は全一だという事。
つまり、全体は一つ。百%だという事。
だから、働きを表す指標に比率が有効となる。
一つの働きを二つの相反する働きに分割する事で働きの作用を認識できるようにする。
このような認識の手法は常套的に用いられる。
ただ元の働きは一つであることを忘れてはならない。
損益、貸借は、基本は、「お金」の流れと、入出金である。
残高、出金、入金、残高の動きと働きが基本である。
この働きを収入と支出という働きの置き換え、さらに収益と費用の働きに変換する事で利益を計算する。
利益は指標である。
つまり相反する方向の働きによって経営や経済の運動の効用を測るのである。
元は一つ、「お金」の流れであるから、貸借と損益、貸方と借方は均衡し総和はゼロになる。
それが簿記会計の原理となる。
簿記の原理が縦横の枠組みを作る。
全体に一つというのは、構造的に一つという意味でもある。
「お金」の流れによる働きによって資産、負債、売上、費用などに区分される。
「お金」の流れは、働きによって対価にも、所得のも、貯蓄にも、借金にもなる。
元は「お金」の流れ、働きは認識の結果である。
認識の作用反作用は、一物二気の発想を生む。
一物二気というの一つの運動は、二つの相反する方向の働くが組み合わさって出現するという考えで。
これは、作用反作用のとられ方が発展した、応用された事と言える。
典型は複式簿記である。
実際の市場取引は、売りと買い、借りと貸しが一対で成立する。
故に、SNAでは、一つの取引を垂直的複式記入と水平的複式記入の四重記入が用いられる。
一物二気、一つの要素に相反する方向の二つの力が作用していると仮定して現象の運動を捉える。
要するに目に見えない働きを認識するための手法であって、相反する力が実在するかどうかは推測の域を出ていない場合が多い。
陰と陽が好例である。
また回転運動や波動にも見られる。
経済の三法則は、ゼロ和、全一、一物二気で、その結果、作用反作用関係が働いている。
経済に動きは暦の上に現れる。