水月。
池に石を投げ込むと水に写った月は散ぢに乱れる。
水に写った月が乱れても、何に慌てよう。
月、そのものは何も変わりはしない。
たとえ雲が月を隠して、水面から月は消えても、月、空が晴れればまた、変わらね月が現れる。
水に写った月影(意識、心)が乱れても何騒ぐ。月、本体を心に描き、実態を見失わない事だ。
瞑想し、心に月を描く。
真言仏教に、このような修行 がある。月輪観という。
これは、事実への信仰を意味する。

欧米には、自己の概念がない。少なくとも、英語には、自己に該当する言葉がない。
逆に、東洋には一神教で言う神(絶対的、超越的存在)が存在しない。
故に、倫理の根拠を一神教とは、神に求め、東洋人は自己に求める。
結果、一神教徒は、行動規範を法や制度、契約と外に置き。東洋人は、礼や道徳といった内面に置く。
私は、自己(主体)と実体(存在)との相互作用におく。
そこで、自己の主体で間接的認識対象という構造が重大な意味をもつ。

明鏡止水たれ。

私、我、自分、自己、自我、自身、己、吾、個人、自ら、俺、僕。
当方、拙者、小生。朕。
日本には、自己を表す事がこれだけあり、微妙に意味が違う。

自己は主体的はたらきである。
自主的働き。
自分で考え、判断し、自分で外界に働きかける。
自律的働きである。自分の基準を持ち。自分の考えで、自分で分別をする。
自制的働き。自分で自分を制御する。
自動的働き。外部の力ではなく、自分の力で動く。
認識上の主体的働き。自分で見て、自分で感じ、自分で認識する。
存在前提の働き。認識上、総ての存在の前提となる。
そして、間接的認識対象の働き。自己は自己の外にある鏡をとしてのみ認識できる。

目の前の現実を、事実を直視しなさい。
戦争の悲惨さを、貧しさをを神は何を求められているか、言葉ではなく、示されておられるはず。

自己の存在は、技術的でも、哲学的でも、思想的でもなく、事実によって証明されているのです。

水に写る月、水に写る月を観る人、水に写る月の三つから水月はなる。
自己概念が希薄な欧米では皮肉な事に外形的関係を深め科学や民主主義、資本主義を発達させた。
しかし、内面が失われがちとなる。例えば、介護の問題も倫理の問題は、忘れられ法や制度、設備の問題に置き換わる。
日本人はなんでも自分の性にして片付けようとする。

自己は、肉体を通じて外界に現れる。命と同じ。
肉体と命は、別物。命を失えば、肉体は屍になる。
命は、目に見えないけど、確かに存在する。小さな虫だって生きている。草花にも命が宿っているのは誰もがわかるけど。
命の正体は謎。
あなたの自己は、肉体を通じて外に現れる。
あなたも確かに生きている。
それは、事実である。見れば分かるけど命は見えない。
見えないけど確かに生きている。それは、行為によって証明されている。

誰にも。
ただ生きているかどうかは、唯感じる者なのです。
存在を知る時のように。
最初の認識は、無意味なのです。

事実は、直観するしかないのです。意味。分別は後から来る。

だから直観を研ぎ澄ます。それは、仮説です。

最初はわかるのではなく。感じるのです。

理屈で人を好きになるわけではありません。理屈抜きに好きになるので。嫌いな人のどこが好きかと問われても、どう答えていいかわかりません。どこが好きと効かれてもね。最初に好きだと感じるから、好きな理由が言えるので。

だから直観を研ぎ澄ます。それは、仮説です。

命は直観でしか認識しできません。あっ生きていると。

理屈で生きているわけではないからです。生きているから生きているのです。

存在は、意味があって存在するのでも、哲学的に存在するのでも、技術的に存在するのでもありません。
存在は、ただ存在するので、絶対かどうかすら。なぜなら、絶対も認識の結果だからで。
ただ信じられるか否か。了解できるかどうかの問題で、ないと言われればない。
自分がないと言われればない。
でもそれでは会話が成立しなくなる。それで、私は私の直感を信じ、相手の自分をあるとして会話を続けるしかない。
存在は、在り在りて在るのである。

神の存在が典型で、神が存在するとする人には、存在するので、存在しないとする人にはしないのです。信じるかしないかで、信じる人と信じない人との間では、会話は成立しない。
神を信じない人は、神の定義とか、存在意義を問うけれど、神は定義があって存在するわけではなく、存在意義あって存在するわけではなく。
ただ存在するので、存在を感じるだけです。
神は、教団があって存在するのでも、教祖がいて存在するのでも、
教義があって存在するわけではありません。信じるから存在する。
信じる者にとって存在するから存在するのです。
私は神を信じますが、私が信じようと信じまいと神は存在するのです。

「私はいない」と言う人に「あなたは存在する」と言っても虚しい。
「ああそうですか」としか言えない。
ただ、その人の倫理について語り合うことはできない。
なぜなら、自分がないのだし、自分を認めないのだから、倫理なんてその人には意味がない。
ただ、倫理のない人と付き合わなければならないだけだ。

神を直接人々が感じる事がなくなれば、人々の間から神は消えるでしょう。

現代人は神を利用する事ばかり考えて、直接神を感じる事がなくなりました。だから、今の世から神はお隠れになったのです。神を言葉で定義しろなどと言い出すから、俺は神の代理、代弁者などと言い出す者が現れるから。

理屈では神を表す事はできません。

神の存在は感じる事で解釈することではない。
命だって、自分だって、存在を感じることで、解釈することではない。
なんで生きているかとか、自分の存在意義があって存在しているわけではなく。
それは、自覚してから考える事で。
存在価値なんて他人からすれば道具であり、手段であり、利用価値でしかなく。
人間の利用価値なんて人間の都合でしかない。
利用価値がなければ存在価値がないとされたら、利用価値がなくなったら存在することさえ許されなくなる。
存在を感じるから存在意義を考えられるので、存在を認める前から存在意義だなんて本末転倒です。

いつ、神を感じるのか。
朝、ああ生きていると感じた時。食事をして美味しいと感じた時。夕日を見てきれいだなと感じた時。
子供の笑い声を聞いた時、神を感じる。

倫理、倫理と言うけど、明確に定義されていないと思うよ。
なぜ、倫理は、行動規範。
規範とは、社会的関係を構築する為に自己の行動を制御するための規範。
ここで重要となるのは、次の二点、即ち、社会性と自己の行動の制御。
と言うことは、社会と自己の存在が前提となる。
なぜ、明確に定義されていないと推測するのかというと、社会と自己を前提とした議論がされていない。
ひどい場合、自己の存在が前提とされてない。
自己は自律的、主体的に働き。
自律的、主体的に働きで倫理とは主体的、自律的働きを制御する為の内的規範。

倫理とは、合目的的な働きである。外的な法と内面的な規範の整合性を保とうとする働きである。

自分があるから自分を制御するための倫理が生じるので、論理があって自分が生じるわけではありません。
たから、人は、倫理を生まれてから学ぶのです。
赤ん坊に分別があるわけでない。
ただ、一人前の大人になって分別がないと許されないだけで。
自分の存在意義が最初からあって生まれるわけではありません。
人は、生まれた時無垢なのです。

信仰から教義、経典は、生まれるので、教義、経典から信仰が生まれるのではありません。
なぜなら、教義、経典は神より生じるので、教義、経典が神を生み出すわけではないからです。

神は人の都合や思惑によって生じるのではない。
神は、神御自身の意志で存在する。

人も、AIに学ぶ事を任せて考える事をしなくなったら機械的にしか生きられなくなるのです。

認識は、自他の分別がないと、無限ループに陥る。
認識主体と認識対象の分別がつかなくなるから。

自覚しないと無限ループに陥る。

無限ループの罠に陥ると、膨大なエネルギーの浪費をしながら制御不能に陥る。
やがて自壊する。

認識は、外部に対する働きと内部への働きの相互作用から成り立つ。
見るという行為は、見る主体と見られる対象からなる。見る主体は内的主体、自己であり。
見られる対象とは外的対象、存在物である。
自分は、間接的認識対象と言うのは、自分を直接認識することができないので自分を一度外は対象に投影し対象化する必要がある。自分の肉体も外的対象である。
自他の分別がないと、自分の顔を自分で直接見るような事。
自問自答を繰り返し、外的世界との関わりを失う。

認識において主体は原因であり、知恵や知識は結果である。
自他の別がないと、因果関係は成立せず、認識は無限にループする。
自己がないと認識は行き場を失って無限にループする。

自覚とは、自分を感じ、感じている自分を信じ受け入れる事。

信じられないのではない。信じている自分が信じられないのだ。

許せないのではない、許そうとする自分が許せないのだ。だとしたら、自覚しないと抜け出せない。

自覚は自己肯定への一歩です。
自己肯定の対極にあるのが自己否定です。それは自己喪失につながります。

自覚し、自分を信じ、自分を愛せるようになった時。他者を知り、他者を信じ、他者を許せるようになる。その時、自分を許せるようになる。