日本には、無為自然という思想が根強くある。道教的な思想と仏教思想が混じり合い、さらに日本固有の自然観が混じり合って形成された。

日本庭園に代表される思想、自然にあるがままにある姿を愛でる。それが、自由なのだと。しかし、この考え方は、多分に日本的である事を意識しておく必要がある。それは、西洋の庭園を見ればわかる。自由は、多分に人工的と言うより、強い自己の意志に基づく思想である。

自由という思想が日本に入ってきた時、この無為自然を自由主義に結びついけて考える傾向が生まれた。

そして、自由主義的なあらゆるものを、無為自然によって説明しようとする。

たとえば、民主主義と結びついて、公正や中立、つまりは、自分の意見を持たない、無思想こそ、民主主義なのだとか。無為自然が、無作為となり、自由というのは、何もしない事という解釈がされる。そこから、無私、無支配、無管理へと発展し、最後には、民主主義が無政府主義に変質する。

言論界の人間がこれを言い出したら大変である。それは、自分の言論に責任を持たないと言っているようなものだ。

言論の自由とは、一切の人為的な働きを認めないと言う解釈になりかねない。言論とは、人の意志の働きである。根本にあるのは、その人の意志、詰まるところ、その人間の意志の根源にある価値観を、認めるか否かの問題だ。無条件に認めることを意味しているわけではない。だから、合意が必要であり、合意に至る手続きが必要なのである。その手続きを無視して、どんな表現でも無条件に認めろと言うのは、暴論である。

また、何もしないという事は、自己主張をしないという事である。自己主張をせずに、周囲の環境に適合する事によって、自分の意志を通そうとする。相手に合わせることによって自分実現をしようとする。しかし、それは、自由ではない。

この様な思想が、極端に反対に振れると、自己を超越した存在である、天や公の前に、無私や滅私であるべきだという思想を生み出した。それが高じて、私的なものの否定へとなるのである。

無為自然という発想は、さらに進んで、自然科学へのある種の信仰、自然科学に対する間違った認識をうみだす。たとえば、主観の排除、又は、客観性への無意味な依存。自然科学というのは、本来が、主観的なものだ。自然科学を志す人間は、積極的に自然や社会に関わっていかなければならない。

しかし、この様な自然科学絵の信仰は、科学万能主義を生み出し、無神論へとつながる。

気をつけなければならないのは、無為自然と、自由とは違うと言う事だ。決定的な違いは、無為自然には、自己がない。それに対し、自由とは、あくまでも、自己中心の思想である。

自由とは、いかに自然と、自分が関わっていくかの問題なのである。無為であっては、自由は成り立たない。

無為自然というのは、ある種の境地をさして言うのであって、自由や民主主義と絡めて考えるべきではない。

自由を確立した時、他人から見ればそれは、無為自然な振る舞いに見える。ただ、それだけのことである。