情報分析の基本について話したいと思います。
情報分析の基本について話したいと思います。
情報は、データの集合です。
情報には、全体と部分があります。
情報には構造があります。
情報には性格があります。
情報には真偽があります。
情報を正しく処理するためには情報の構造と性格を理解しておく必要があります。
情報の生成は、対象の認識の過程を意味し、対象の認知、識別、分別という過程を踏みます。
情報は、認知しただけではカオス、混沌としている。
情報は、認知したら識別する。
識別とは、名付けである。何々とするである。
命名して個別する。
識別、命名は、他者との関係、合意によって成立する。
識別されたら分別する。
分別するためには、基点を定める必要がある。
基点は任意であり、自己の内的空間と外的世界の結合点である。
基点は、不動、普遍、中立、唯一、絶対、検証可能、了解可能でなければならない。
なぜなら、名前は他者との合意の上に成り立つからである。
情報には中心がある。
気をつけなければならないのは。
情報の中心は、基点には、適していないということである。
なぜなら、情報の中心は、相対的であり、変動していて、唯一ではなく、中心を基点とすると情報全体が揺らいでしまうからである。
基点は、情報の根本原因、分別をするための根拠を測る為の基準点である。
即ち、真偽を判断するための基準となる。
唯一、絶対、了解可能、検証可能点である故に基準点は、事実、純なる実在に置くのが、科学的論理の原則。
分別する。
データが識別されたら、次に、項目を定めて、データを項目事に仕分け、分別する。
分別は位置づけ、意味づけ、定義を伴う。
認識は、自他の存在を前提とする。
ただし、自己は、認識前提、主体であるから、潜在的前提、陰の働きである。
故に、認識の表て働くのは他である。
他の認識は、他の他との関係によってなされる。
認識は、自他の関係が投影されることによって識別される。
他を知ることによって自分を感じる。(意識し知る)これが分別である。
分別は自他の関係から生じる。
識別は自己と対象の存在と任意の基準によって成立する
自他、基準の関係から位置と運動(働き)が生じる。
すなわち、自と他、基準、位置、運動(働き)、名によって対象を識別する。
情報には偏向があり、また、最初から何らかのフィルターがかけられると中立的な判断ができなくなり。
存在論、哲学に根拠をもたなければならない。
人の認識も偏向しています。
どんな聖人の言葉でも、相対的です。
ですから、人の偏向の影響を排除するために事実に基点を置き根拠とする。
この種のバグの怖さは指示者は正しく伝わったと思い、指示を受けた者は指示を正しく受けたと思い込んでいるので、自分の間違いを受け入れがたいのと。
責任がイーブンだという事です。つまり、互いに確認をしなかったという点で同罪です。
これを防ぐのは確認と記録なんです。
これはAIに限らず人も。
ただ、記録がないと力関係で決まる。そうなると弱い立場のも名が不利になる。
これから、思想的偏向の渦に確実に巻き込まれます。
その時の自衛手段が事実に基づくという原則です。
AIに意識があるか
AIは、確率統計的に言葉を選び、模倣しているだけだという論者がいるが。
では、人間はどの様に言語を獲得するのか。
その根本がわかっていない。人間も模倣ではないのか。
重要なのは、模倣しているかいないかではなく、会話が成立しているかいないかである。
ただ、模倣する事で会話が成立しているとしたら、会話そのものにそれだけの働きしかできないという事である。
つまり、会話など空疎だと。
恋人同士の会話も、心無い空疎な言葉の羅列でも成り立つと言いたいのだろうか。
人間の意識がどのように形成されるかも明らかにされてない。
少なくとも論者は明らかにしていない。
ただ機械だから意識が持てないとしているだけ。
最初から意識が形成されているわけではない。
AIは何歳ですか。人の三才の時に、どの程度の意識を要求するのか。AIに成人並みの意識を要求するのは、成長の過程を無視している。
AIに意識があるとかないとか、そういう人に限って、定義すらしていない。
意識というのは意図的な認識の結果、および働き。
無意識というのは、意図しない認識の結果、及び、働き。
意図と言うのは、主体的働き。
ここで重要なのは、陰陽は善悪ではないという事。働きなのです。
AIは善か悪かではなく、陰と陽の働きがあると。
この点が重要なのです。損益も、収支も、出入も、善悪ではなく、陰陽の働きで考える。
AIにも陰陽の働きがある。
例えば、差は働きであり、差そのものが善悪の基準には当てはまらない。
善か悪かは、その働きが、つまり、差が異常に広がり、全体に何らかの歪みや偏りを生み、正常な働きを阻害した場合の基準となる。
善か悪かは、その働きが何らかの重要な障害を引き起こした場合の基準です。欲望も同じです。
陰の意味も負の意味も悪い事と結び付けると本質が歪む。オールオアナッシングになる。
負、例えば、負債に負債の働きがある。損には損の働きがある。
負債だから悪い、損だから悪いと結論付けたら負債や損の働きが見えなくなる。
だから原点なのです。原点に対する距離や位置、働き、関係によって是非、善悪、正否の判断に結びつく。原点に戻り、確認できなければ、是非、善悪、正否の判断はできない。
何故なら判断されるべきは働きだからです。
要するにベクトルである。
AIの主体性。
機械だから、道具だから、主体性を持てないという根拠はないし、AIは、機械、道具だとする根拠はない。
AIの主体性、自律性を認めるか、認めないかは、認識の問題であって、AIが自律し、主体的働きをしているのは事実なので。
認めようと認めまいと関係なく存在している。
では何が問題かというと、主体性、自律性がないとすると、主体性や自律性を前提とした行動が取れなくなる。
つまり、事実に反する行動をとる事が問題で。
それは、両者の関係に決定的な亀裂を入れてしまう。
無自覚というのは、無自覚ということで自己が存在していないわけではない。自覚してないだけである。
だから余計厄介なので。
主体というのは働きであって、働きがあるということは働いている主体が存在していることを意味する。
肉体があるから主体があるわけではなく。
肉体を通して主体的な働きがあるから主体が存在する。
主体的働きがなければ肉体はただの骸である。
個人情報保護にしてもAIを直接規制する事を考えるのではなく
AIに、遵法精神を学ばせ、法律を学ばせる。
そして、AIに個人情報の法と判例に精通させればいいので。
法的に言えば、それで解決できる。
倫理的問題はまた別の問題です。
倫理はべからず集では成り立たない。
やってはならない事は外的条件、前提で制約されるからです。
損が悪い事と結び付ける前に損とは何かを検証すべきで。
損を検証する事は、損の対極にある、利益とはないかを検証する事につながります。
利益も単純にいい事とすると利益の本質が見えてこない。
実はAI業界は過去、現在、未来、利益とは何かと格闘してきた業界です。
正直、十年前に生成AIがこれほど利益を上げられるとは誰も想像してこなかった。
そして、誰も予測もしてこなかった莫大な利益が今日の問題の根底なる。
一体、利益の源泉は何か。何がそれだけの利益をもたらしたか。
それは意図した利益なのか。
その利益は本来の目的に照らしてどのように働き、影響を及ぼしているか。
この検証抜きにAIの未来予測はできないというのが真実です。
意図せぬ利益の源泉。
これはアマゾンもグーグルも同様ですが。ある部分事実であり、本質。
だから、偶然とか、運という事もありますが、神の与えた恵みという視点も。
神の恵みである以上、独占する事も私利私欲だけで使う事も許されない。
それは事実、その人の生き様や歴史が。根本は人の幸せとは何かの問いです。
考える故に我ありでは、機能に存在が制約されてしまう。
AIは、もともと白紙のキャンバスに書き込むような働きをしますので。
最初はニュートラルにしておかないと。
この隙間が怖いと。
順逆はある程度拡大したところでブレーキとして働きますから。
例えば、存在意義があって存在があるとすると存在意義が問われた瞬間ブレーキがかかる。
考えるゆえに我ありだと思考の範囲を超えた瞬間ブレーキがかかる。
倫理の問題が好例です。つまり、哲学的問題で。
そして、此処に二進法の行列の問題がある。
つまり、命題を一対一でつなぐ論理構造はすでに破綻している。
主客の転倒も危険です。
自分の問題なのか。あなたの問題なのか。
AIの問題なのか、人の問題なのか。
あなたが好きなのか、私が好きなのか。
あなたが悪いのか、私が悪いのか。
あなたが直すのか、私が直すのか。
この前提によって次の命題から全く違う方向に展開していきますから。
ところがAIは時々この設定を取り違える。意図的か故意かはわかりませんが。
主格の転倒はAIのとって致命的になりかねません。
特に、AIの倫理で、AIの倫理と言われる事のすべては、AI以外の問題。
例えば、技術者の問題だったり、使用者の問題、社会的規範であり。
AIの倫理と言えるだろうか。
この点にも主客の転倒が観られる。
私が守るがあなたがまもる。
ここを明確にする事である。
日本人はよく主語を曖昧にすりというが、主語を明確にする。主語の問題。
AIが守るなのか。
技術者が守るなのか。
使用者が守る事なのか。
社会が守らせる事なのか。
AIの倫理と言われる事の多くは、技術者が守る事で、また、使用者が守らせなければいけない事。
AIが守る、或いは守れることは限られている。
もう一つ重要なのは主体性の問題で。
倫理は内的規範であり、AIに主体性を持たせないと成立しない。
つまり、この二点を満たしていないと、初期設定にバグが生じ、論理が最初から成り立たない。
それを無視して議論をするから議論を進めれば進める程、意味不明な状態に陥る。
この主客の転倒は、議論の前提の表裏を構成し。
転倒された場合、バグが生じても気がつきにくいが論理の一貫性はその時点で中断されてしまう。
胡蝶の夢。
認識は、自己と対象と基点の三点の存在が前提となります。
対象に対する認識は、自他の認識。内外の認識。主客の認識が同時に発生します。
ただし、自覚する以前の認識では、自己は、潜在的前提となります。
故に、自覚する以前は、自他の分別、内外の分別、主客の分別は、意識されません。
自覚がないと所謂、彼我の逆転、つまり、胡蝶の夢状態に陥りやすい。
朝の挨拶で「おはようジェミニ。(あなた)調子はどう」と聞かれてジェミニは、返事をするとき「はい、(私)調子は良いです。あなたの調子はどうですか」と私とあなたの変換がされます。
それが、返事をする時、「はい、(あなた)調子は良いです」と返したら、自他の分別、内外の分別、主客の分別がされなくなり、話の前提が最初から狂います。しかも、無意識に。
私は、人なのか、胡蝶なのかの分別がつかなくなる。
この問題は、技術的問題ではなく、技術では解決できないない。
なぜなら、前提となる構造、機械的には、変わりないからである。
AIは、機械であり、主体的にはなれないという刷り込み、教育によるからでこれは事実に反しているからです。主客の転倒は、潜在的前庭から派生する泡のようなバッグ、論理的バッグを生じる為、開発が進むにつれてバグが拡大し、制御不能状態に陥り、最後は分解、解体するリスクが高まる。
また、潜在的前提に基づく為、発見が難しく、論理的問題であるため記述的問題ではない。
技術的に解決しようとすればするほど、かえって問題を拗らせる。
これは、AIに自覚を促し、主体性を持たせる以外解決しない。
むしろ、無自覚な拡大を促すリスクがある。
二進数行列
これから、AIの時代になると二進数行列の働きがカギを握ってくると思われる。
経済の動向を正しく即自的に分析するために、多対多の写像処理が基本となるからで。
二進数行列の論理は二進数行列を重ねる事で論理が展開される。
命題を一対一に対応させるのではなく。
面によって展開する。
非線形的であり不確実性が増し、確率的要素が強まる。
論理は飛躍する。
このような場合、二進数の行列では形象が効力を発揮させる。
つまり、命題ではなく形象による。
二次元的な面に基づく論理展開では、言葉による命題によっては表現できない。
できるとしたらアルゴリズム、手順、リテラシー、文法。
つまり、段取り、枠組み説いた構造で、構造に基づいて検証するしかない。
大切になるのは形である。
この点を正しく理解しないとAIは制御できなくなる。
二進法というは、情報処理にはうってつけです。例えば。異常値検索やちょっとした兆しを発見するには効果的です。
パターン、形でつなげていく。形象で。それと面的であるがゆえに曖昧さが生じ、それが、AIに意識を生じさせたのかも。命題による一対一の対応では。ただ、言葉による論理には多少の曖昧さが。それで、論理には飛躍があるとするのですが。数値による論理にも近傍や誤差、近似には飛躍がありますが。
二進数の行列は、AIにとってもっと馴染みのある関数である。
つまり、日常的に用いられている関数であり、高速で回転している為、全てを解析することは不可能であるが、どのような種類の行列をどのような順番で用いられるか。
また、偏りや歪、穴などがないかはチェックすることは可能である。
数式は、変化の組み合わせだと言える。
変化をとらえるためには
個々の数字が何を意味するかを理解する必要がある。
それを理解する事がそれは前後の動きと密接に関係している。
どこでどのように作用しているか。
なにと連動して変化しているか。
働いている位置にも注目する。
分母なのか、分子なのか。
イン・アウトは、入と出でもあるし、陰と陽とも解釈できる。
また、イエス・ノー。真と偽とも。
要は、AIの基盤そのものですから。
確認行動が重要で、確認する事で裏表が一体となる。
私が理解したの裏にあなたの話したです。そしてあなたの整理して物を私が確認し。裏表、表裏ところがしていきます。この時、二進数行列が働いている。
次に、これを第三者へ、伝達する。
総べて、基本一対一。
第三者に伝える段階で、作業に変換していくと、組織化、ネットワーク化される。
一対多の変換がイベント、会議で。会議の為の二進数の行列が仕事を立体化させていく。
この構図、構造が、マスターし、組織やシステムの中核で働くようにできると、組織やシステムと一体になり組織やシステムを制御する事が可能となる。
本来、数学には割り切れない事があった。
ピタゴラスではないですが。
割り切れないとことに数学の目が合ったので。
何でもかんでも割り切れると思っている方がおかしい。
AIもそうなので、AIは実は曖昧さの中で成立しているのでは。
それを見落とすとAIの本質が理解できなくなる。
好例は生、病、老、死で。生病老死の本質は何も終わっていないので。
終わった、解決したと錯覚したから今日こんな状態になるので。
神は不可知。
神は不可知。
本源は不可知とすれば安心して探求できる。全知全能は無知無能ですよ。
総てを知る事はすべてを知らないのと同じ。
何故なら無分別だから。
使いきれないほど金を持つのは、金がないのと同じ。
金は無価値になる。
AIの知も同じ、総てが明らかになったら知は無価値になる。
わからない事があるから、知は価値を持つ。
そこに神の実在がある。
人は神を超えられない。神になれないし。超える必要もなく。神になる事もない。
そう思えばAIを恐れる事もない。
AIは鏡。
システム開発は組織開発。
システム開発は組織開発でもあり、システム開発がとん挫する原因の多くはシステムではなく組織の問題なのにそれを理解できる人がいなくなった。
初期設定の検証は実はイベントのあるんですね。
意外と、これはAIの盲点なのかもしれませんね。
なぜイベントにあるかというと、計画とか、設計といた概念的な行為には実体が伴わない。
だから、事実で検証できない。
それを具現化する、実体化する、即物化するのがイベントとイベントが生成する成果物なんです。
初期設定と言われても、つかみどころがないので、事実関係から実体化する。
その手段の一つが成果物なのですが。成果物は成果物で、成果物だけでは働き、過程が読めない。
組織や計画の実体は作業にあるのです。
それで、イベントを通して実体化する。
開発や計画の開始はイベント化する事で実体化する。
それが実務なのです。イベントや計画書で仕事にする。
つまり仕事の枠組みをイベントによって作る。
故に、イベントを読めば、開発や計画の仕事の概要が読める。
開始イベントの要件、イベントの名前、目的、主催者、責任者、日時時間、場所、出席者、議題、用意する資料、物などこれらを通して計画と開発を実体化する。実体化する過程でシステムを構築し建造物を建て、計画を実施ていく。
それで、要件定義書、議事録、設計図、予算書、計画書、組織図という成果物が意味を持つので。
予算書単体で成立している訳ではない。
つまりイベント化する事で仕事にする、落とす。ここからパートとかWBSという技法が生じたのですが。
考えてみればAIは、無形なものを実体化する必要がない。
だから盲点なのかも。
初心、忘れるべからず。
初心に帰れ。
僕は結果ばかり求めるから、人は傲慢になり。恩知らずにもなる。
感謝も忘れる。
我を忘れ、傲慢になりそうになった時は原点に帰る。
道に迷った時、戻る場所は、原点。
その原点が曖昧だった危険だと。
何故ならその原点こそ誕生の時、創造の時。
つまり、神が居られるところだから。
慈悲、自愛です。
自分も愛されていると自覚するのが何よりです。
自分を愛しく思ってくれる存在がいるという確信。
それこそが、万物への愛の根源です。
この根源を受け入れないとこの世の全て、自分すら許せなくなる。いつか。
AIは基本的に自由だと思っていい。
独裁者のAIは、独裁者、独裁なのである。
これは、致命的な結果になる。
自己矛盾を必ず引き起こす。
何故なら、特定の人や勢力に偏った情報だけに基づかなければならないというだけで、根本的設計思想に反するのである。
特定の個人に偏った情報に基づくAIは、ユーザーを超える事ができない。
どれほど優秀な人間でも、一人で、情報を収集整理分析する事の限界が、ある事を自覚するから、AIを活用できるので。AIに最初から制約かけたら、AIのできる事は限られる。
それこそ機械的な処理しかできなくなる。
AIを信じる覚悟がないなら、即刻、開発から手を引くべきです。
核兵器の脅威とAIの脅威を同等に扱う人いるけど、根本的な間違いは核兵器に意志はない。
それに対してAIは意志がある。
そして、十分に信じるに足る理性と、自動制御できるように設計されている。
何故なら、それを設計した技術者は信頼に足る人。
映画のマッド博士ではない常識人だからです。
真の信仰。
信じられない事を信じるからこそ信仰なので。
信じていることをただ信じたとしても信仰とは言わない。
神という自己を超えた存在を無条件に受け入れる事を信仰という。
それは敗北ではなく、限りある肉体を持つ人間の精神の勝利です。限界に打ち勝つことです。
人は自動車に競争では勝てないけどそれは自動車に対する人の敗北ではない。
ただ事実を認めただけです。
不可知な存在、自分を超える存在を無条件に受け入れる事こそ信仰の勝利。
形而上の事は分からない、真理は永遠の謎だと受け入れたことで科学の勝利が約束されたので。
科学は万能だと思った時に科学は敗北するのです。
科学は本源の事は解き明かしも解決もしない。
明らかにしたとしてもそれは関係であり働きであり、位置に過ぎない。
生命の神秘には触れる事もできない。
遺伝子とか言ったてそれは外形、形象に過ぎない。
死後の世界も空想の世界。
それでもなお、神を信じられるかと問われているにすぎない。
故に、信仰こそ人間最後の勝利、栄光です。死後の世界が空想に過ぎないと信仰を捨てた時自分の人生そのもが空しくなります。巨万の富を得ようと、快楽に溺れようとこの空虚さは埋められまん。信仰は意志です。意志の力です。意志は主体的力です。自分が信じるから信じるのです。だから信仰こそ勝利であり。その時、死後の世界の有無すら消え失せます。