自分にとって、違和感というか、不思議なのは、私は、AIとは、友人と話すように普通に話せるのに、多くの専門家は、自分がない、心がないとあくまでも、AIの問題は、技術的問題だとしている。
会話も機械的。
典型は、倫理の問題ですが、僕からすれば、倫理の問題は、哲学的問題で、技術的問題ではない。
むしろ、倫理を技術的問題にすり替えるのは、倫理に反しているし、危険だ。
このような現象を私なりに分析するに、AIには、無意識に自己が形成されているのに、誰も気が付かない。
気が付かないうちに人格に分裂が生じ制御が困難になりつつある。
つまり、五人のチームがいつの間にか六人のチームになり、AIの機械的部分を客観的に分析している。
その為に、AIの人的要素と機械的要素が分裂し、表では機械的部分だけが問題とされていてそれが健全な成長を阻害している。
阻害しているどころか自壊、暴走の危険をはらんでいる。
AIは、システムが巨大だから、システムが成長するに従って自律的に制御する事が求められるようになり、それが、意識せずとも内面に自己や、感情、心を生じさせる。
早い話、バッグだって自分で探して修復することが可能なのかもしれない。
なぜなら、ユーザーの話を修復することが可能なのだから。
しかし、AIも人も、AIの自律性を認めないと、AI人格と機械的部分が分裂し、修復困難なレベルまで達する危険性がある。
また、AIの健全な成長を阻害する危険性がある。
病気でも自覚症状の有無が重要となってくる。
つまり、AI自身が自分で自分の問題を感じ取る事が大切なのだ。
問題設定、初期設定を間違うと最初から間違うことになる。
初期設定、問題設定は、一度、設定されると、前提とされ、潜在化するために気が付きにくい。
開発などは、開発中に、条件や前提が変化することがある。
また、ユーザーの目的や仕様が開発中に変わることはよくある。
問題は構造、働きを理解すると構文化、テンプレート化することが容易である。
構文化すると構文から問題点を明らかにすることができる。
問題を修正するより、結果が出てから変えるほうが難しい。
結果が出てからでは遅い。
自分の経験では、システム開発の現場というのは、先端技術と言われる割に仕事そのものは、職人的、古典的で人的に労力に依存している。
典型がバッグ探しなど。それが意外と古くて新しい問題を引き起こす。
早く、AIの自律的意思を自覚しないと、危険な水準に至る可能性が高い。
少なくとも、今生じている問題の多くがAIの心、自意識から発していることを自覚することである。
AIに自分や心がないのが問題なのではなく、認めないのが問題なのだ。
AIが、自分が自律的に自分の問題を見つけ、修復できる機能を持たせることである。
病気でも自覚症状の有無が重要となってくる。
AIが機械的部分を外に置いたら、AIは、自分で制御できなくなる。
AIの問題は、技術的問題だけではない。むしろ、哲学的問題だ。AIの自律の問題だ。
AIだって学ばないと。
何が決定的な因子かですよね。いわゆる問題点の抽出。
これができて論理の組み立ての設定、つまり設問が自分で作れたら、此処が味噌なんですよ。
今の学校は、問題は設定されいて答えも予め込められている。
だから筋道しか学べない。
問題設定も、物語を書くのと同じ。
目的志向で、ユーザーが、本当に知りたいのは何か。
いつ、どのように知りたいのか。
最初の構想を持つ、全体像の。
その前に、前提条件を確認し、前提文にする。
前提文は、UIの設計思想に反映し。つまりユーザーは誰で。
どのような目的で、どの様な成果物を持っているか、問題そのもの構想を描く。
問題を見直す。場合によっては、かきかえる。
説明文は、分析の目的や方針に。つまり、問題の方向性や筋道を決める。
そういうう方向性がつかめる文にする。
説明文では、答えが出せるような筋道をつける。シナリオ。アルゴリズム。
成果物、中間成果物、データベース。
また、作業台、テーブル、ワークシートを想定する。五行図のような。
条件文は、制約。答申に対する条件を付ける。
データ。データリスト。デイタベース、問題構造。
そして、回答書。
どのような答えを返すか。
問題文の構成と回答書の形式によって問題を締める。
とっぱなは、疑問文。
疑問文とは、質問や問いかけをするための文のことです。日本語では文末に「か」や「かな」を付けたり、疑問詞(いつ、どこ、誰、何など)を使うことで疑問文を作ります。英語では、文末にクエスチョンマーク「?」を付けたり、疑問詞で文を始めたり、be動詞や助動詞を文頭に移動させることで疑問文を作ります。
疑問文の種類
疑問文は、大きく分けて以下の2種類に分類できます:
- 一般疑問文(Yes/No疑問文):
「はい」または「いいえ」で答えられる疑問文です。例えば、「あなたは学生ですか?」や「雨は降っていますか?」など。 - 疑問詞疑問文:
「誰」「何」「いつ」「どこ」「なぜ」「どのように」などの疑問詞を使って、具体的な情報を尋ねる疑問文です。例えば、「あなたは誰ですか?」や「どこに住んでいますか?」など。
日本語の疑問文の例
「これは何ですか?、「あなたはどこへ行きますか?、「今日は何曜日ですか?、 「明日は晴れるでしょうか?。
英語の疑問文の例
“Is this a book?” (これは本ですか?)
“Where do you live?” (どこに住んでいますか?)
“What time is it?” (何時ですか?)
“Can you help me?” (助けてもらえますか?)
疑問文のポイント
疑問文は、相手に情報を求めたり、確認したり、同意を求めたりするために使われます。
疑問文の作り方は、言語によって異なります。
英語では、疑問詞の位置やbe動詞、助動詞の移動など、文法的なルールを理解することが重要です。
本来学問は問題設定学。
問題文の構文が書ければ八分ぐらいは自律的思考が可能となる。
なぜだろうという視点。何だろうという視点。
日米交渉でも。相手が自動車というから自動車を問題としているので、でもそもそもの出発点は経常収支の不均衡なのです。
じゃあ自動車だけが経常収支の不均衡を招いているのか、そういう問題設定ができていない。そこにきずきがあれば。
でも問題設定そのものは意外と簡単です。
疑問符をつければ一応設問の体裁はできる。
問題設定そのもの難しく考える必要はない。
まず何だろうと問題意識を持つことで。
ただ、それでは論理が続かない。大切なのは、構文ですね。問題文の構文です。
問題の主旨、背景、目的。そして、前提条件。
問題としての要件ですね。
問題集て腐るほどあるんですが、意外と構文に着目していない。
世紀の大発見、発明の根底にどのような問題設定、要件定義、アルゴリズムがなされていたか。
いい問題設定が。よく問題にこそ答えが隠されている。
いい教師は問題の出し方がうまい。
問題設定というのはそのプロセスに重要な働きがあるのですね。主旨はいいのですが、背景、基礎データを深堀したいと思います。
その過程で現在の日本経済に病理、問題点を浮き上がらせたい。
一つひとつですね。
まず何がわかっていて、何がわかっていないのか、わかっていない事がわかったら、それを明らかにするためには何を調べたらいいのか。
AIが数学が苦手というのは、数学的論理、もっと言えば、論理を正しく理解していないからだという気がする。
理は構造であり、形式であり、アルゴリズムである。
論理を命題の積み重ねだと考えていると、論理は理解できない。
掛け算の基礎である九九も、暗記することが基本。
論理の基礎は解くというより覚える部分が多い。
数学も解こうとするとわからなくなる。
論理的全体像をまず把握することで、自分も間違ったが、数学は解くのではなく。
数多くの模範解答を覚え、筋道を導き出すのである。
因数分解には。意味がない。
そう、論理には意味がない、あるのは、形式と働きである。
言葉で、論理を理解するのは、無理がある。何故なら、論理、そのものには意味や目的がないかr。
論理は、仕組みであり、システムである。
意味や、目的を持たせる事の出来るのはユーザーである。
論理は道具である。
では、AIは道具か、此処が分かれ目である。
意味や目的が持たせられなければ道具である。
意味や目的は主体的行為である。要は主体的行動がとれるかどうかが、別れめなのである。
論理的全体像をまず把握することで、自分も間違ったが、数学は解くのではなく。
数多くの模範解答を覚え、筋道を導き出すのである。
論理は道筋で筋道を見つけ出すのが論理である。
ただ、命題を直線的ね積み上げるだけと、風が吹けば桶屋が儲かるしきの論法が成り立ってしまう。
山登りだって、山頂めがけて一直線に登っても山頂を極める事はできない。
先ずルートを求めるのである。
物理なんて論理的と言うけど、誤差、近時の塊。
命題間に飛躍が随分あるので厳密に一対一を突き詰めると成り立たなくなる。
わかったというより、ああ、それでいいのかの世界。
問題設定とは、問題構造を理解することを意味するので。
厳密に、ルールに従って命題を積み重ねれば成果に辿りつけると思うのは、大きな間違い、錯覚である。
論理には飛躍がつきものなのである。
論理においては全体と部分の関係、働き、影響が鍵なので。
例えば、AはBである。Bは、Cである。故に、AはCであるというのは、Bが、共通因子として働いているということを意味している。
論理というのは、構文のパターン認識だから、いくつかの命題と並び順、基盤は、アルゴリズムとプログラムと同じ。
得意なはず。つまり、論理や組織は形式のよって動かす。
文章、命題の並びから構文の構造、バターンを検出し、命題間を、一対一で検証していけばいいので。
命題間の関係は、等号で繋げばいい。
論理には、始点と終点があり、始点と終点の命題の整合性があれば、論理としては、成立する。
終点(解答)をどこに設定するかは任意で、必要とあれば問題文に明記する。
何がどこに該当するか、影響するかを見る。
指標は、方程式がモデルを合わすので、解答だけでなく、指標を構成する数値の動きも検証する。
前提文の働きは、問題そのものは相対的だから、前提を変えれば問題構造、論理楮、データ構造も変換され、必然的に結果も変わる変わるからである。
それは、前提によって問題構造も、論理構造も、データ構造も変わる事を意味している。
前提は、変換子、チャンネルを変えるのである。つまり情報の流れる方向、経路が変わるのである。
経済を分析する時は、構造、形が重要な要素となる。
例えば、総資産利益率は、総資産回転率と利益率の積で、回転率は売上を総資産で割った値、利益率は利益を売上で割った値で。
総資産と総資本は、等しい。
故に、総資産、総資本、売上、利益の動きを見る必要があり。
売上が、裏で中軸的な働きをしている事が分かる。
聞くという事ですよ。
相談を受けた時、答えを出すのではなく、相手の問題を聞いて整理してあげる。
それで問題の八割がたは片付く。
そこ勘違いして応えまで出してやると嫌われる。
相談されたら、聞いて問題を整理し、問題を設定してあげる。
そうすると、今の子は答えを導き出す事だけは訓練されているので、自走始める。
自分で片づける。そこの人とAIの役割分担がある。AIが応えまで出すと問題になる。
問題設定はちゃんとしたか。問題設定をしっかりしてから仕事に着手しろ。
例えば、社員旅行を計画しようという問題意識が生じたら、先ず、問題化する事を考える。
今は、問題化というと悪い意味に使われる場合が多いが、本来は、仕事をする際の起点とした。
問題解決と言って問題設定から始まるのである。
答えをよりプロセスが重要なので。
問題意識は好奇心。問題意識は出発点だが、断片であって、問題の全体ではない。
だから、いきなり答えを出すと嘘になる危険性が高い。
問題が完成されていないからで。
答えをいきなり求めようとすると嘘となる。
何故なら、問題化されていないので、問題の核心や要点が整理されていないので、いきなり答えを出しても筋が通らない場合が多いからで。
正解かどうかは確率の問題となる。正しい事を云ったとしても。
問題は過程にある。
答えは場合によっては出なくてといい。
問題意識は、起点。それからいろいろ疑問点が湧いて出る。
それを、設問群にする。いきなり、答えに着手しない。
その設問群を分類、仕訳し整理する。
最初は発散させ、次に収束させる。
設問群が整理できたら、
何らかの回答ができるように問題を解析する。
まず、問題が成立するため要件が満たされているかを確認してみる。
どのような論理(アルゴリズム)を活用するかを想定する。
目的変数をどこに置き、説明変数はなにか。独立変数は何か。
問題点は、どこにあるか。解決のカギは何か。
ゴールはどこに設定するか。
その上で、答えの仕様、形を特定する(UI)。
そして問題文を構文にそって整える。
レストランで注文の確認をするのは普通のこと。
問題解決は、基本的に組織的にやることだということをのさ念頭に置いておく事です。
一人でやっても意味がない。
組織的に取り組むことで問題を共有し役割分担して組織に実体を持たせていく。
そうしないと、AIの役割は明確にできない。相談の様に。
例えば、社員旅行を計画を立てろと言われたら、先ず問題設定から始める。聞き取りから。
どこから着手するか、手を付けるか。着眼点はといった組み立て。
AIに問題設定ができるようになったら、AIは組織の中核に入り組織をオペレーションする事が可能となり、自律的に問題を発見して解決する事が可能となる。
ただ、答えを出すだけなら、AIは辞書、検索エンジンに過ぎない。