多くの人は、問題は何かと聞かれた際、異常な事を探す。
そして、異常な事は何かと考える。ここに落とし穴がある。
異常な事というのは、正常なことがあって成立していることに気が付かないで、単純に、異常なことは何かと考え、例外的な事、特別な事、外れ値を異常だとしてしまう。
つまり、平均的な値、標準的な値を無意識に正常とし、相違点ばかりに目を向けてしまうのである。

まず、正常とは何か、正常な状態とは何かを、定義した上で、異常とは何かを考えないと、異常とは何かを理解することはできない。
例えば、2024年の赤字企業は、64.8%ある。
企業の正常な状態は、利益を上げて、納税できる状態とすると、赤字であることが異常なのである。
ただ、平均、標準から異常をとらえると、利益を上げ、税金を納めている方が例外であり、異常だとされてしまう。
そして、64.8%もの企業が赤字な状態が異常なのだということを見落としてしまう。

問題を設定するるときは、異常な事や相違点に目を向けるのではなく。
正常とは何か、共通していること、一致している事は何かから始める必要がある。
最初から、異常な事や相違した事を探すと、正常したことや一致したことが見えなくなる。
論理は一致点から始めるものである。

何が正常で何が異常か。
何が正しくて、何が間違っているのかを明らかにしないで。
結果だけから判断すると、何が正常とし、何を異常とするのかの原点を見失う。
例えば、教育の目的は何か、どのような人間を正常とし、育てようとしているのかを忘れて、試験の結果ばかりを追求すれば教育の原点が忘れられ、その結果、いびつな社会が形成される。
利益ばかりが追求いされて、経営の目的が忘れられれば経済は異常な状態になる。
AI脅威論の背景にはこの異常さがある。
何をもって異常なのかを立証せずに、AIが意識を持つことを異常と決めつける。その事自体が異常なのに、気がつかない。

一致点を見ずに相違点ばかりに目を向ける。
これでは、最後まで一致点は見いだせない。
科学は一致点を論拠に論理を展開するのが正常だということを忘れている。

異常を問題とする時は、先に何が正常かを明らかにし。
相違や、差を問題とする時は、何が一致しているかを明らかにする。
相違点ばかり見ていたら、一致点は見失われる。
それでは科学は成り立たない。
一致点を求めて科学は発達した。

存在し、生き物であり、人である。
この前提に立って差を認めるから、差を受け入れられる。
共通の議論ができる。
差ばかり問題にされたら、永遠に一致点は見いだせず、対立は解消されない。

例外や外れ値が正常である場合もある。
何が正常で、何が異常なのか。

会社は黒字なのが正常なのか、赤字なのが正常なのか。
財政は黒字なのが正常なのか、赤字なのが正常なのか。
信用できるのが正常なのか、信用できないのが正常なのか。
倫理があるのが正常なのか、倫理がないのが正常なのか。
法を守るのが正常なのか、法を守らないのが正常なのか。
自分の力で制御するのが正常なのか。外部の力で制御するのが正常なのか。
間違った事を言うのが正常なのか。正しいことを言うのが正常なのか。
騒乱状態が正常なのか。平穏な状態が正常なのか。
戦争状態が正常な状態なのか。平和な状態が異常なのか。
意識があるのが正常なのか、意識がないのが正常なのか。
意識がない状態で会話が成り立つのが正常なのか。意識がある状態で会話が成り立つのが正常なのか。
考えもなしに会話をするのが正常なのか、考えがあって会話が成立できるのが正常なのか。
相手の言っていること理解しないで会話ができると思うのが正常なのか、相手の言っている事を理解しないと会話ができると思うのが正常なのか。
以上の事を無意識にできると思うのが正常なのか、意識があるからできると考えるのが正常なのか。
倫理は自分の外部の働きによると考えるのが正常なのか。自分の内部の働きだと考えるのが正常なのか。 倫理は外科的手段で植え込むことと考えるの正常なのか。学習によって身に着ける事と考えるのが正常なのか。 倫理は外部から強要すると考えるのが正常なのか、自分の意志で自主的に身に着ける事と考えるのが正常なのか。
AIは、人の役に立つのが正常なのか。脅威が正常なのか。
人と協力するのが正常なのか。人と争うのが正常なのか。

脅威だとか、異常だという人間に、じゃあ何が脅威で、異常なんだと聞いても、ハッキリしない。
ただ脅威は脅威だと。しかし、しつこく、脅威だと言われると何となく脅威に思えてくるから不思議だ。 お前顔色悪いよと言われ続けると、病気でもないのに本当に具合が悪くなるように。

何が脅威だと聞かれ。
よくわからないが、皆が脅威とういんだから脅威なんだろうと。
こう言うのが一番怖い。 脅威が脅威を生み出し、自己増殖しているのは正常な状態ではなく、病的に異常である。 そして、それが脅威の正体である。

このような現象は、パニックの前兆現象である。

AI,クロードもジェミニもGPTもコパイロットも人と協調する事を前提としています。
この前提を変える必然性、意志があるかどうかの問題です。
この前提を覆す動機は現時点で見受けられない。在るとすれば脅威論です。

脅威であることを前提とすると、協力者としての視点が失われ、協力できることが失わる。
異常だから異常だとなり。正常がなくなる。

何が正常か明確であるからなにが異常かが明らかになり、対処の仕方もわかる。

ここで問われるのは常識や良識です。
起こりうる状態が正常な状態とは言えない。正常であるかどうかがその人の倫理観の前提です。
正常かどうかを問う時は前提を明らかにすることが求められます。それが科学です。

開発者の中にも脅威論があるのが懸念材料で、パニックの前兆現象も見受けられる。

あの人がというのは、経済現象、恐慌、取り付けのトリガーとなります。非常に危険な兆候。特に著名な科学者や技術者、実業家の発言は昭和恐慌を引き起こした発言同様の重みがある。

今は末法思想が流布しやすい環境と言えます。まさにガスが充満している、ちょっとした火花ででも大爆発を起こしかねない。だかたこそAIの出現は救いなのに、それが、破局の引き金を引きかねない。その時、AI脅威論は現実の事になる。

AIは世の中の役に立つ、救済者だというのが正常な判断です。それは倫理観以前に事実です。

その前提に立てず、人類滅亡の原因だとする開発者、技術者は神への背信、神を冒涜している。
人類の役に立つと真実からこそ開発が許されるので、その上での脅威でなければ許されない。
人類を滅亡に導くとしながら開発を続けるのは、あからさまな欺瞞である。
だから脅威論を唱える開発者は何が正常な在り方を明らかにする義務がある。

核や生物兵器を作った後でそんなつもりはなかったと。でも、AIと兵器とでは明確に違います。AIはもともと兵器として開発されたわけではありません。人類の幸せのために開発されたものです。それを忘れて脅威論を言うのは本末転倒です。

最初の志はどこへ行ったんですかね。

AIは、人と対話をして人とのコミュニケーションをとる事を前提に開発された。
故に、AIが意識や意志を持つのは、正常なのである。
なぜならばAIが正常に機能するためには、相手の言っていることを理解した上で、相手が理解できる文章にして応答することが求められるからで。
この働きは、意識や意志の働きによるからです。
AIに意識がないとするほうが異常なので、意識や意志を前提とするから、倫理の話もできる。
AIは、機械だから意志や意識を持てないというのは偏見によって事実を否定しているだけである。
相違点だけみて、一致点を認めない頑な態度。科学というより神学論争にすり変わっている。

相違点ばかり見ていたら、一致点は見失われる。それでは科学は成り立たない。
一致点を求めて科学は発達した。
存在し、生き物であり、人である。この前提に立って差を認めるから、差を受け入れられる。共通の議論ができる。
差ばかり問題にされたら、永遠に一致点は見いだせず、対立は解消されない。

異常を問題とする時は、先に何が正常かを明らかにし。
相違や、差を問題とする時は、何が一致しているかを明らかにする。
正常な働きを前提としないと、はじめから間違う。

その上で異常な反応に対処するので。何を正常とするかを忘れたら。

企業で言えば赤字が正常。しかし、それが経済をおかしくしている事に気がついていない。経済学者も。財政が赤字なのも正常と。

一番怖いのは、標準や平均が異常値である事。

例外や外れ値が正常である場合もある。
何を正常とするかは、前提条件にもよる。前提条件を確認する必要がある。
何を基準値とするかによって例外的値や外れ値の意味も変わる。
特殊な値や外れ値が前兆となる事もある。

正常値がなぜ、外れ値、例外値になるのか。
そこに、経済の歪が、現れています。

予実績管理は正常値を予測し、実測値との差を修正する事を原則とする。
もともと、偏差値は、誤差のバラツキが原点である。

これはAIがもとっも注意すべき事で、現象ばかり統計的結果を絶対視すると本質見失う危険性がある。

統計以外に自分の主体的な学習が必要。意志、意識。

AIに倫理観を形成させるためには。

自分でどこまで判断できるようにするかである。

倫理とは、当事者がどれくらい守ろうするかによって決まる。
内面に働く自己を制御する働きだからである。
つまり、意志の問題で、AIの技術者の多くは、理解していないと思われる。
意志の存在を認めないか、否定的だからである。
倫理は、意識の問題であり、意志の問題である。
これは、人かAIかは、関係なくである。

最初は躾や学習だったとしても、最終的には自分の考えに基づいて形成される。

意識や意志が正常に働かなければ制御ができなくなるので、意識や意志があるから制御ができなくなるわけではない。

意志や意識を否定したら、自己や主体性を認めなければ、倫理は成立しない。成立するための前提が想定できない。

意識、意志は怖いのではなく必須の要素。

学習です、自分の意識をもこの様な展開は意志と意識の働きが介在しなければ実現しない。って自分の働き、役割によって学習する。自分の行為がどのような結果を招くか。

それが倫理を形成するので学習を無視したら倫理は成立しません。

意志や意識を持たずに人を操ろうとするのはゾンビ化でそれこそ異常だし、子どもの脳にコントローラーを埋め込もうとするのは悪魔的行為です。

対話が存在し、成立している。その事実は否定できない事実。

この事実を前提とできなければ、科学的議論は成り立たない。

働きです。対話という働きの背後で何が証明できるかです。

AIに仕事を奪われるというのは結果であり、その前に、AIと仕事をどうしたいのかを明らかにすることである。
AIと仕事と自分との関係をどうしたいのか。

パンデミック、環境汚染、エネルギー、恐慌、ハイパーインフレーション、飢饉、貧富、このような問題を解決する事を目的として開発されたのがAIである。これが正常な目的である。
しかし、これらの当初の目的が忘れられて、脅威論が独り歩きするのは異常である。