侘び寂びとは、詫びとは、飾り気のない、あるがまま。
素朴な物に、美を見出す事で。
寂とは、時間の経過を感じさせるものに深みを感じることで。
みすぼらしく、貧相なことではない。
質素で、素朴、古いものでも、凛とした品性を感じさせる。
非対称だけど均衡を感じさせる。
それは、使い手、持ちての品性を感じさせることで、粗末だけど、そこに、品性を見出すの持ち主の眼力であり。古いものでも、衰えを感じないのは、持ち手が日々の研鑽を忘れないから。
侘び寂びは、何気ない、日常的な風景の中、さりげなく、押しつけがましくない思いやりを感じさせられるところにある。
それが、集約されているのが茶室である。

狭い茶室の空間に、壮大な宇宙を感じ。
客は、一人の裸の人間として。
人間同士が、一服の茶を介して静かに、心穏やかに向き合う。
そこには貴人も、貧者も、富者も、聖人も、権力者も、弱者もない。

侘び寂びは、何気ない、飾らない日常の中にある普遍や安らぎを感じる安心立命。平穏、安らぎを言う。

無駄な事、余計なものを全て削ぎ落とした機能美。
そのもの自体に潜む美。
素顔美人のようなもの。
内面の美。覚悟。

虚心坦懐。
吹っ切れた生き方。

打ち捨てられたようなものに価値を見出す。
だからこそ、見る目が問われる。

よく手入れされ、往年の美しさをとどめたクラシックカーのようなもので。

時の移ろい、変化の中に美を見出す。
完成されたものではなく。

諸行無常。
諸法無我。

栄枯盛衰は世の常。
今この時を大切に。
今この時に生き、死んでいく。

人生五十年。
下天の内に比べれば。
夢幻の如くなるぬ。
一度、生を受け、滅せぬ者のあるべきか。

一瞬の時に永遠、不変を感じる。
一期一会。

一期一会と言いますけれどね。
今、あなたと過ごすこの時は二度とこない。
だから大切にしましょうねと。

この切ない思いこそ、その日その時を、生き生きと輝かせてくれる。
だから、出会いに感謝し、この時を、実り多くしてくれるあなたに感謝する。
神に自然に手を合わせ感謝する。
明日あると思うな、今、この時に、自分を尽くせと。
一回いっかい。同じ時はない。
失われなわれていく時を悲しむ暇はない。

この出会いこそが奇蹟なのだ。あなたとの出会いを大切にし、この出会いの時に自分の誠を尽くそう。
その記憶こそが大切な心の宝になる。真実となる。
憂うることなかれ、悲しむことなかれ、永遠はこの時にこそある。

所詮この世は夢幻よ。
真実はあなたへの思いにある。

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。
喜々として胡蝶になりきっていた。 自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。
荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。これが物化(区別すること)というものである。(荘子 胡蝶の夢)

この日限り。
初めて会った人でも古くから知合のように接し。
明日会うと約束しても、今生の別れと別れる。

その覚悟もって日々何事もなかったように暮らす。

人は死という一点で同じ、平等なんですね。
事故で死のう、病院で死のうと、戦場で死のうと、死という事に変わりない。
そして死後の事は知りようがない。
それが時として人を狂わせるのですね。

常に、死を覚悟してこの時に臨む。
その覚悟で風景を見たら何も飾らない事に安らぎを得るのですから。
それが武士。

この一瞬に全て投げ出す。
一瞬に生きる。

これは特攻精神のも通じる。
どうせいつかは死ぬのだ(諦観)
いつか死ぬのが定めなら、きれいに死にたい、潔く
だから笑って逝きます。元気よく。

侘び寂びにはその凄まじい覚悟が穏やかに秘められている。

勝ち負けにこだわるのは汚い。
この一刹那にある真実を。
渾身の気魄をもって打ち込む。
きれいに。見苦しくなく。一撃で。

そして一礼。
礼に始まり。礼で終わる。
人生も。

後は、からりと断つ。未練を持つな。
潔く。

それが日本人の美学。
何が正しいかではない。
何が美しいかだ。

明鏡止水。
平常心。

清浄で、透明な時。

山里で何百年も風雪に寂れた庵を、自分の庭に移築し、磨いて、茶室にし。
その一室に例えば、トランプ大統領やプーチン大統領、習近平書記長を招いて一服の茶をふるまうような事。

本居宣長は、”もののあわれ”が日本人の美意識だというのですね。

もののあわれとは、日常的な些細な出来事から人の世や自分の定めをしるとか。
自然のわずかな兆し、変化から、その裏に隠れる、目に見えない真理や不可思議な世界を感じる心を言う。

舞い落ちる一枚の葉を見て秋を知るとか。
母を背負いてその軽きに三歩歩めずとか。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き在りみたいな。
女性の何気ないしぐさにこそその人の美しさ、艶がでる。

外面を装うより、内面の教養や品性が醸しだす美しさこそ本物なのだと。
だから裏地に凝る。表はぼろ布なのに裏地は鮮やかな絹にする。
そして、その裏地を少しのぞかせるで、隠された美を感じさせる。
目に見えないところにこそ、真実が隠されている。

星座を見て、宇宙を感じる。
小さな変化や物事から、壮大な世界や宇宙の神秘を感じる。
そして、日本人は感じろ心を重んじあえて、神秘な世界に必要以上に踏み込もうとしない。

相手の悲しみを感じる心を大切にしてその人が悲しんでいる事に深く踏み込もうとはしない。
知ったところでどうにもできなのら、共鳴共感するにとどめとく。
それが粋なのだと。相手の心のうちに土足で踏み込むのは野暮だよと。

梅原猛は、人の価値観には、真偽、善悪、美醜があるが。
多くの国は善悪で、或いは、真偽。
美醜におく国はあまりないけれど、日本人は、美醜においていると。

国は勝てないかも(真偽)。
争いは悪い(善悪)。
しかし、ここで国を捨てて逃げるのは汚い。(美醜)
ならば、大義に殉じ、子供たちを信じて美しく散ろう。
それが大和魂。日本人の価値観だと。
それで日本人は桜を愛でる。美しく咲いて。パッと散ろう。
それが侘び寂びにも通じる。

今、この瞬間、この瞬間に永遠を感じる心を大切にし。
全力を尽くして生きる。命がけで生きる。一所懸命。

ブッタが、この世の真実を悟ったら、死んでも惜しくないと。

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日超えて
浅き夢見し 酔ひもせず


だから五七五の短文に全て押し込み。
辞世の句を読んで死んでいく。
それが武士のたしなみ。
たしなみと趣。

お陰様。お互いさま、お世話さまとあいさつをする。

死は定め。
人は死ぬという定めにある。
死という一点を見つめた時、今、何をすべきかが明らかになる。
いつか死ぬのだという事を忘れた人は怠惰になる。
死中に活を見だす。
だから、詫び寂びも、物哀れも幽玄となるのです。

茶室とは、場である。空間である。
入り口は躙口といい。跪かないと入れないくらい、小さく作られている。
一種の産道と考えていい。
招かれた客は、にじり口をくぐり抜けて、一個の人間として部屋に入る。
部屋に入ったら、世俗的な属性は総てかなぐり捨てる。
一人の人間として対峙する。
そこで、何を話してもいいが、そこで話されたことは一切口外してはならない。
ただ、無作法なことは亭主にたいする礼として、してはならない。
室内では亭主の決めた作法に従わなければならない。
茶室は、交渉の場でも、議論の場でもない。
いろいろな話をするのは構わないが不作法なことは許されない。
茶室はあくまでも場なのである。

茶室は、不必要なものは総てはぶかれなければならない。
必要なもの以外何も置いてはならない。
茶室は空であり。亭主は場を提供しているにすぎない。
茶室は、小宇宙なのである、
ただ、亭主は場を和ませるために、一工夫する。

茶室は華美にしてはならない。
ただ日常的な風景を切り取り洗練した場にする。
部屋の中では静謐、穏やかさを保つ。

茶室では、敵味方もなく、貴賤、身分、性別もなく。
一人の人として対峙する。
つまり、どんな人も客となれば、亭主の前では平等、対等として扱われる。
大切なのはそこで人として何を感じるか。
それが、ものの哀れであり、侘び寂びなのである。

私は、奇蹟とは、海が裂けたり、死んだ人が生き返る様な事だとは思っていません。
明日また日が昇る事が信じられるような、極々当たり前な事。
だから、私はイエスの存在そのものが奇蹟であって、復活の是非はともかく、本質的な事とは思いません。
イエスが、信仰を貫いたそれこそが奇蹟なのです。
イエスや、仏陀、ムハンマドが何を見、何を信じたのか。
その先の指し示す先に何があるのか。
特攻隊員たちが何を見て何を信じて死んでいったのか。
残念ながら、人は窮地に追い込まれないと真の信仰が現れません。

老いは認めるけれど、美しく老いたい
死は受け入れるけれど、きれいに散りたい。
それが侘び寂びの根源にはあります。
見苦しく生き恥を晒すぐらいなら、潔く死のう。

利休は、だから命乞いもせず、従容と死を受け入れたのです。
そして、その精神は、特攻隊にも受け継がれた。
それで、彼等は、元気に逝きます。

信仰は生き様ですから物語や対話形式で伝承されることが多いです。
しかし、その物語を絶対化すると信仰の本質は伝わりません。
神は神で、唯向き合うのみです。

英雄とか聖人ともてはやすのは後世の人で、多くの聖人や信仰者は、唯野良犬のように、ぼろきれのように捨てられました。
多くの科学者も迫害の内に死んでいきました。

大切なのは覚悟です。

誰からも見捨てられて、うち捨てられても信仰を失はない覚悟だけです。
信仰を貫いた事こそが奇蹟なのです。

多くの先覚者の生きざまの中にこそ信仰の真実が。
ソクラテスの死と利休の死ですね。
僕はそこに純朴な信仰の真の信仰を見るのです。
何々教の神を信じるのではなく、目の前の世界、存在の中にこそ。
だから、死と正面から向き合った者は生きる事の意義を問い続ける事になる。
特攻隊員を悲劇とか、哀れとか、可哀そうという皮相な見方では。彼らは生を全うした。
それは、一度生を受けた者で滅せぬものがあるべきか。
死が避けられぬ定めなら、大義に殉じる事は本望と。

侘び寂びは、生と死の境。狭間を意味している。
そこには、生もなく死もなく、時間からも解放されている。
涅槃ですね。涅槃寂静。

だから、詫び寂なので。

徳島白菊隊。

白菊(偵察員の訓練用機)最高速度百八十キロ/時。沖縄まで五時間。
ゼロ戦五百三十キロ/時、沖縄まで二時間。
夜間海上三十メートルの低空飛行。

五時間、漆黒の星空を、二十歳前後の若者が。
決して短い時間ではない。
死という現実に向き合には十分な時間で。

戦国時代には、死もまた日常的な出来事の一つ。
朝に生まれ、夕べに死んでいく。
だからこそ、常に、生と死に向き合い。
いつ死んでも、悔いのないように、その時その時を今が最後と生きよと。
サムライは常に清潔な下着を身につけよ。
どこで死んでも恥をかかないように。
清潔な下着を身に着ける。それが心構え。
清潔こそ詫び寂びなのである。

それで特攻隊員は、元気でいきますと。

詫び寂び、もののあわれは、滅びの美学ではない。
再生の美学。
腐植土の中から萌え出づる若草の美学。

世の中に、悪い噂や風評が立ったとしても、惑わされてはならないよ。

池に石を投げ込めば、水面の月影は乱れるけれど、月そのものに変わりはない。
何に惑わされて、我を忘れるか。

急流に映る月影は動かず。

月影は、自分の心。月は自分の本性。
小石に心乱れても自分本体は何も変わらないのだよ。
あわてず騒がず、心静かに自分を取り戻しなさいと。

明日ある命と思うな。
今、死んでも悔いないという生き方をしろ。

今、咲き誇る桜も夕べには散っていく。
満開の桜の花の下で、今咲く桜の美しさををたたえ。
栄耀栄華も一夜の夢よ。
散る桜にもののあわれを感じ
覚悟を新たにする。

死を定めと直視する。
その覚悟なければ侘び寂びももののあわれもわからない。
いつ死んでもかまわない。
死後の世界などわからない。
知ったことじゃあない。
今この時、この瞬間に、永遠がある。
この時に見る月。この瞬間に咲く桜の美しさを愛でる心。
それが詫び寂び。もののあわれ
日に新たに、日々に新たに。

この日に最善を尽くせば、後の事を、今悩んでもしようがない。
後の事は、後の事。
今、最善を尽くさずに明日を憂えても意味ないではないか。

山本周五郎の作品の中に、馬鹿がつくほど正直な武士の話が出てくるんですね。
同輩がなぜおまえは、そんなに愚直なまでに、人に馬鹿にされても正直を通すのかと聞いた時。
俺は、忠義の為に一生に一度、嘘をつかねばならぬ時が来るかもしれない。
その時、あいつがいうのだから嘘ではないだろうと信じてもらわなければならない。
だから、嘘をつかない。誠を尽くす。

これが詫び寂びに通じる大和魂なんです。

鴨長明は「方丈記」の冒頭で。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。
世中にある人と栖と、又かくのごとし。

たましきの都のうちに 
棟を並べ、甍を争へる、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋 ぬれば、昔しありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。
住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十人が中に、わづかに 一人二人なり。
朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

不知、生れ死ぬる人、
いづかたより来りて、いづかたへか去る。
又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
或は露落ちて花残れり。
残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども、夕を待つ事なし。

また、吉田松陰は留魂記(現代語訳)で

今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。

つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。
この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。

私は三十歳で生を終わろうとしている。

未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。

だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。
農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

(参考文献:古川薫著「吉田松陰 留魂録」)

そう言い残して逝った。

かくすれば 
かくなるものと 
知りながら
やむにやまれぬ 
大和魂

吉田松陰