個別で単純な作業を除いて、一回聞いたくらいで指示が正確に伝わるのは、稀である。
大体、一つの指示で指示は完結しているわけではない。
簡単な作業でも、いくつかの作業が組み合わされて完結する。
指示にも順序があり。
作業の流れに従って順を追って出される。

位置について、用意、ドンが典型である。
この様に、単純な指示でも、手順がある。
いきなりドンもないし。
用意、位置についてもない。
位置について、用意、ドンである。

その他の手順には、「規律」「礼」「着席」。
「集まれ」「整列」「番号」等がある。

この様な指示が通用するのも、前提条件が整ているからである。
選手が、声の届く範囲にいて、号令をかける者が、目視で確認できる状態であるという条件を、満たしているから成り立っている。
指示・命令は、指示・命令だけで成り立っているわけではなく。
指示・命令を成り立たせている条件があるのである。
指示・命令を正しく理解するにためには、前提条件を核にする必要がある。
確認もせずに、わかったつもりになるのが、一番悪い。

支店長という支店長はいない。
部長という部長はいない。
皆、名前があり、個性がある。
命令一下、全員が統制のとれた、組織的行動を起こさせるためには、ただ、単純に指示すれば済むというわけにはいかない。
重要なのは、前提となる状況、条件である。
それに応じて、方針も指示も変わる。
だから、一回いっかい、方針を確認する必要がある。
怖いのは慣れである。
前回と同じだろうと、方針を確認せずに行動を起こすと、思わぬ落とし穴に落ちる事がある。

野球だって、試合の前に一度指示を出せば終わりなんてことはない。
一球一球、状況の変化に合わせて指示を変えていく。
最初から試合の全容をとらえているわけではない。

勝ちにいく試合もあれば、様子見の試合もある。
勝つことが目的と言っても、全て同じ方針で戦うわけではない。
一回一かい、状況や前提の変化で方針は変わる。
それによって、布陣も打順も変わるのである。
方針を確認しなければ統一的な行動はとれない。

よく映画やテレビドラマで大将の一振りで大軍が一糸乱れずに動き出すのは、
一振りで動けるように、指示が出されているからである。
一振りだけ大軍が動くわけではない。
条件を満たし、準備が終わっているから、一振りで大軍も動かせるのである。

一般に、最初の指示は、様子見程度である場合が通例である。
無論、指示は、守られなければならないが、
最初から、最後まですべての作業を読み切って出すわけではない。
簡単な仕事でも、普通、三か月を単位で考える。
つまり最低でも三か月で、数百、数千の作業が組み合わさって一つの全体を構成している。
しかも、作業は一定しておらず、条件が変われば、絶え間なく変化する。
それこそ、その日の天候や気分、体調によっても変化する。
その都度、その都度、条件や、状況を確認し、作業も人も組み換え当ていかなければならない。
組織も仕事も、生き物だと言われる所以である。
機械的にとらえていると痛いしっぺ返しを受ける。

だから、指示を一回聞いたくらいで理解できるはずがないの。
中途半端に、確認もせずに、わかりましたなんて返答すると。
何がわかっているんだ。
わかっているというなら言ってみろとどやされた。
真剣にやれ。
間違えました。できませんでしたでは済まされないんだからな。
お前が仕上げなければ、全体の仕事が、止まる。
確実に仕上げるのが肝心で、見栄や外聞など捨てろ。
一つひとつ確認をしながら確実にこなせ。
指示の真意はやっているうちにわかてくる。
今は、とにかく、話を聞いている程度に留めておけ。
やているうちにに、おいおいわかてくる。
今は、行動に移せ。

最初の指示の目的というのは、相手の反応、対応を見るくらいの事。
どの程度分かったか。
早い話、抵抗、反抗を見てみたい。
わかりましたと言って、黙り込まれるのが一番困る。
抵抗であろうと反抗であろうと、何に、反応し、何に抵抗しているかがわかれば、対処のしようがある。
要は、最初の指示は、その程度だと思っておくことである。
最初から、完成度など求めたらやってられない。

だから、指示を出したら、「どうだった。」と、
腹心に、状況を確認し、次に一手を決めていくのである。

いずれにしても、権限は、指示・命令が出されてはじめて発効する。
権限が委譲されたら速やかに、簡単な指示をする。
さもないと、権限が無効になる危険性がある。

指示というのは、権限がある者が、指示すれば、無条件に動くわけではない。
指示を受ける側の人間の問題もある。
指示を受ける側に人間が、相手を、指揮官として認めなければ、指示に従わない。
指示に従わないどころか、反抗したり、時には襲い掛かてくる。
人間も動物の一種なのである。
野生の状態で育ったものは、簡単には指示に従わない。
今の日本は、組織や、集団活動の原則もねじまげ。
組織的な動きができないように仕組まれている。
組織的に動けなければ、隷従する以外にない。
主人が、別の国の人間に手渡される。
それが、植民地教育である。

指示命令系統は、獣道のようなもので、実際に機能した経路が生きるという傾向がある。
故に、権限が委譲されたら、速やかに、指示・命令を発する。
その場合、集まれとか、報告せよとか、確認せよとか、復唱といった、簡単で、拒絶できない指示で指示に従う事を覚えさせろ。
ならさせろと指導された。
指示・命令に従うのは、理屈ではなく、習性、習慣なのである。
兎に角、権限が委譲されたら、指示して、命令系統の回線を開く。
それが鉄則。

指示・命令は、強制だから悪いと今の学校では教える。
これは、組織の意味が分かっていない。
だから、学校から統制が失われ、社会が無秩序、無規律になるのである。
国が統制を失えば、容易に他国の支配を受け入れるようになる。
それが、植民地教育である。

非常時に、誰が、指揮を執るかも重要である。
決定的の事だが意外と明確にされていない。
親父たちは、軍隊経験者だから、何も言わなくてもすぐに緊急体制に頭も体も瞬時に切り替えられた。
それは、見事なものだったが、自分たちは、そのような訓練が、されていないという事を、念頭に置いておく必要がある。

非常時においては、指示が誰からも出ないというのが最悪な事態なのである。
間違ってもいいから、速やかに指示が出なければならない。
責任者が不在の場合も往々にある。
その場合は、その場にいる者が瞬時に非常時の体制に入らんければならに。
戦後生まれの我々は、その経験がない。
だから、いざという時に、体が固まってしまう危険性が高い。

緊急時には指揮官を臆病にしない事である。
非常時、緊急時というのは、不意を打たれる。
要は、何の準備、用意、心の準備もされていない。
だから、大事に至らなかったと甘くみるのではなく。
大過なく済んだ時にこそ、準備を怠らない事である。
その場合、全ての責任を、トップが引き受けて。
事実だけを、客観的に分析、反省できるようにすることである。
ただ、コロナのように、十分、準備する時間がありながら、何も対策をしていないのは、論外である。

非常時には、第一報がカギを握る。
最初に報告した者に、最初の指示が出されるからである。
だから、第一報を誰が入れるかは、事前に定めておく必要がある。
事故等の場合、誰から誰に第一報が入ったかすぉ確認する必要がある。

また、実際に処理する者が、最終的に責任負うことになる。
誰に、処理を任せるか確認し、指示する必要がある。

立場上、部下の責任を問うたことはあるが、部下の性にしたことはない。
今の日本は、組織の原則、統制を頭から否定しているから、平気で部下を切り捨てたり、置き去りにする。
肝心な時に、腹が痛いとか、責任が持てないと放り出す。

現代の日本は、非常時を想定できない。
有事と平時の区別がないからである。
侍、武人、軍人がいなくなったのである。
軍人、武人は、単に、権力に隷従しているわけではない。
命がけで国を憂えているだけだ。
今までは、有事を想定することなく国の独立が保て来た。
しかし、いよいよ、それも怪しくなってきた。
有事が実感できないから、コロナの時のような非常時に対する備えができず。
また、アフガンの時のような失態を引き起こす。
覚悟ができていないのである。